◎共同通信インタビュー
2015年1月初旬におこなわれた共同通信インタビュー記事が全国加盟各紙に掲載されています。添付したのは、2月8日付の新潟日報「転換期を語る――暴力が噴出 歴史的危機」。(インタビュアー:沢井俊光記者。撮影:中野智明カメラマン)
ーーとの記事を「辺見庸ブログ」から拾ったので、ここにその一部をPDF画像からOCRの読み取りをして、貼り付ける(辺見氏は突如記事を削除するので、こうやって貼り付けておかないと失念する)。
たとえば、次ぎの文章は、驚くべき「名文」にもかかわらず、たまたま保存していたからよいようなもの、リンク元の記事はなくなってしまっている。
……にしても、「戦争ハ国家ノ救済法デアル」といふ深層心理(欲動)はいつか顕在化するのだろうか。ダチュラをまた見る。「大量のトゲが密生している」。図鑑にそう書いてあったのを、目がわるひものだから、「大量のトカゲが密生している」と読んで異常に興奮したことがある。ほんたうに大量のトカゲが密生すればよひのになあ・・・とおもふ。さても、薄汚いオポチュニストたちの季節である。プロの偽善者ども、新聞、テレビ、学者、評論家・・・権力とまぐわう、おまへたち「いかがわしい従兄弟」(クィア・カズン)たちよ!われらジンミンタイシュウよ!ノッペラボウたちよ!一つ目小僧たちよ!ろくろっ首たちよ!タハラ某よ!傍系血族間に生まれし者らと、その哀しく醜い末裔よ!踊れ!うたへ!よろこべ!そして、ごくありふれたふつうの日に、なにかが、気づかれもせずにおきるのである。戦争トソノ法律ハ国家ノ救済法デアル。(辺見庸ブログ)
…………
なお、ここに貼付するのは、辺見庸インタヴューの一部であり、全文はPDファイルを参照のこと(共同通信インタビュー.pdf)
ーー戦後70年の意味をどう考えますか。
「戦間期」という言葉がある。戦争と戦争の谷間にあって戦争のなかった時代という意味だが、第1次世界大戦が終わる1918年から第2次大戦が始まる39年までの約20年間を『第1次戦間期』としたら、第2次大戦が終結した45年から今までを『第2次戦間期』と言えるかどうかに興味がある。敗戦後70年たち、これから続く状態が戦争とは逆の平和かどうか、疑わしい。現代は日常の中に戦争が混入しているのではないかと思う」
ーー今はどんな時代でしよう。
「フランスの哲学者レジス・ドゥブレは90年代に『グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する』と言ったが、びっくりするぐらい当っている。経済も文化もボーダーレスの時代になり、いろいろなものが均衡化していくに従って逆に、(分裂や分断が進む)バルカン化が起きるパラドキシカル(逆説的)な時代に来ていると思う。ウクライナの紛争や『イスラム国』の出現はまさにそれで、国家の衰退と封建制の復活に立ち会っているといえるのではないか。旧来の国家像が崩壊し始めている。
資本の活性化、収奪力はすさまじく、人聞は人間であり得たという圏内からどんどんはじき出され、疎外されている。地球温暖化の問題を含め、これほど巨大な不安に固まれて生きている時代はないのではないか。ストレスが一人の人間としては耐えられないくらいのものになりつつある」
ーー民主主義も行き詰まっているように見えます。
「普遍的な現象になっている。欧州のメディアは日本の右傾化を警戒しているが、ネオナチ的なものがたくさん現れる欧州自身の右傾化はすさまじい。民主主義が根付いていると思っていた米国でも、最近の黒人襲撃に見られるように差別が原始的な形で、暴力的に噴出している。民主主義というシステムの中で、問題を処理していく機能が破綻している感じさえする。現代は歴史的な危機を経験しつつあるのではないかと思う。
以前はプロレタリアートのような階級的アイデンティティーがあり、『自分たちは皆貧乏だ。許せない。政権を打倒しよう』となった。だが危機の時代においては、階級的アイデンティティーを民族的、人種的アイデンティティーが凌駕してしまう。ウクライナでもロシアでも中国でもそうだ。日本でも戦後史上、例を見ないほどの勢いで、人々の意識が嫌韓、嫌中に向かっている。日常というのは、急にこの日から崖っぷちですという変化の仕方はしない。暗転はゆっくり、大規模にいくわけで、その過程は見ることができない。でも敏感に耳を立て、目を見聞き、五感を研ぎ澄ませていれば感じることはできると思う」
さてここでは《フランスの哲学者レジス・ドゥブレは90年代に『グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する』と言った》という文のみに取り合えず注目しておこう。
まず「グローバル化で等質化すればするほど」を「世界資本主義化で差異が解消すればするほど」と読み換えてみることにする。
資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。
しかし、利潤が差異から生まれるのならば、差異は利潤によって死んでいく。すなわち、利潤の存在は、遠隔地交易の規模を拡大し、商業資本主義の利潤の源泉である地域間の価格の差異を縮めてしまう。それは、産業資本の蓄積をうながして、その利潤の源泉である労働力と労働の生産物との価値の差異を縮めてしまう。それは、新技術の模倣をまねいて、革新的企業の利潤の源泉である現在の価格と未来の価格との差異を縮めてしまう。差異を媒介するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。資本主義とは、それゆえ、つねに新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない。それは、いわば永久運動的に運動せざるをえない、言葉の真の意味での「動態的」な経済機構にほかならない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』P59)
すなわち、世界資本主義化すればするほど、差異そのものが解消されてしまう。それゆえ、新たな差異を探し求めていかなければならない。それが「資本主義」である。
わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。
二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)
次に「等質化すればするほど世界はバルカン化する」の「バルカン化」に注目しよう。これはフロイト派あるいはラカン派においても同じようなことが言われている。
《ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える》と意訳できる文章だが、ここでは英文をそのまま、その前段も引用しておこう。
Eros and Thanatos are not separate drives: they indicate opposing directions for the course of life. This accounts for a typical characteristic—the more one of the two directions is present and predominates, the stronger the other will become as well. This does not only apply to couples. The more a united Europe is achieved, the stronger nationalist and even regionalist trends become.(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
ここにエロスとタナトスとあるように、もともとはフロイト起源の文章の変奏である。
フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に終結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe,BEYOND GENDER. From subject to driveーー「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)
フロイトから直接引用すれば次の如し。
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)
というわけで、『グローバル化で等質化すればするほど世界はバルカン化する』とは、次ぎのようにいうことができるだろう。
世界資本主義で、世界中の差異がなくなり平等化して融合すればするほど、すなわちエロス化すればするほど、この平等化、大きな融合を破壊しようとするバルカン化、切断・破壊欲動、すなわちタナトス欲動が生じる、と。
このエロス化/タナトス化は、同一化(疎外化)/分離化ともいいかえられる。
もしわれわれが「すべての動物は平等である」の時代に生きているのが本当ならば、これが必然的に意味するのは、差異の消滅である。権威は差異を基盤としているという事実の観点からは、この意味は、権威はどぶに嵌っているということである。われわれにとって不幸なことは、望まれた帰結――「平等と自由」が実現されるのは、不成功に終わっていることだ。そしてその代わりに、われわれは直面しているのだ、少なくともヨーロッパでは、たえず増えつづけるコーポラティズム、レイシズムとナショナリズムに。往年の権威の代わりに、われわれはいっそうの権力に遭遇する。権威と権力はなにか違ったものだ。
重要なことは、権力powerと権威authorityの相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。
明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。このような社会的症状social symptomsの背景に、われわれは共通のあるひとつの要素を見出す。それは不安である。これは疑いもなく、症状の核であり、どうやってそれを理解したらいいのかという問いをわれわれに課す。これは核となる現象であり、ラカンが主体になることthe becoming of the subjectと呼んだことの中で、われわれをそれを研究しうる。私はすでに他の場所で(Verhaeghe, 1998)、幅広く研究したので、ここではただ二つの過程だけを喚起しよう、それは疎外alienationと分離separationと呼ばれるものだ。この主体になることにおいてIn this becoming、ふたつの過程は、一つに応じれば他を取り除くというふうに機能する。仮にこの機能をこの論文のテーマに適用するならば、そんなに理解することは難しいことではない、疎外は、主体を他者と同じものにすることを余儀なくさせることを。他方、分離とは、差異の可能性の領野を開く。ふたたびくり返せば、同じことと他のことsameness and othernessとは、――われわれがこのあと見てみるように、偶然の一致ではないのだ、ラカンが分析の終りを、全き差異absolute differenceとして定義したことと。その意味とは、 I(A) とobject aのあいだの距離を可能なかぎり大きく保つことということだ(Lacan, 1964, last paragraph).(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe))
ここにあるように、われわれは権威の時代が終わり(父の名の崩壊)、権力の猖獗する時代を生きているということになる。権力の猖獗とは、ラカン派的には貪り食う母の時代である。それはいくつかの変奏があり、享楽の父(エディプスの父に対して)とか、母なる超自我などとも呼ばれる。
たとえばラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールはこういっている。
すなわち、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。
“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”([PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org)
「貪り喰う母/エディプスの父」とは、「母性のオルギア(距離のない狂宴)/父性のレリギオ(つつしみ)」(中井久夫)としてもよい。とはいえ、先ほど掲げたポール・ヴェルハーゲの論文.(社会的絆と権威)にも強調されているように、エディプスの父を復活させるなどとはとんでもないことである。だが、では「母なる鰐の口」(ラカン)から逃れるにはどうしたらいいのか? それへの答えはない。
悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。(ジジェクーー絶望さえも失った末人たち)
「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(柄谷行人 第四回長池講義 要綱)