(ネットで見られる明治のシュール画像 宮武外骨「滑稽新聞」絵葉書集&電子書籍集) |
なぜ、下の画像を貼り付けておいて忘れたのか。やはりアルツハイマー気味なのか(「脳軟化症」を理解し許さねばならぬ)。
実はこのところ成島柳北をめぐってすこし調べており、ようやく宮武外骨の名を思い出したというテイタラクである。
1880明治13年の春頃、政府が経費節約のため諸官省の茶を廃して湯に変更せしめた事があった。その時柳北は「朝野新聞」で「茶を廃するには及ばない。茶を飲む人間を廃した方がよいのだ」と痛罵した。冗員淘汰説の民論が喧しかった時、満都の人士間にこの犀利な一語が伝えられて、柳北の奇警な才藻に敬服せぬ者はなかった。(宮武外骨「明治奇聞」)
園性善嗔善罵(園、性善にして、善のののしるをしかる)、嬌舌如刃(頬舌、刃の如く)、雖豪士論客(豪士論客といえども)、亦無不辟易(また辟易せざる無し)、園毎罵余曰糸瓜翁(園、罵るごとに、余曰く糸瓜翁)以余面長絲瓜翁(余の面長を以て糸瓜翁と)、其罵人之妙概如是。(その罵る人の妙概かくの如し)の類で、此れは柳橋の芸妓阿園を評した一齣(シュツ)である。顔が人並み外れて面長で馬面先生の綽名のあった柳北が、逢う毎に此妓から「ヘチマオヤヂ」と罵られたなど、頗る面白い。(宮武外骨)
さて、そんな具合なので、遺忘に備へていくらかの画像と文章のたぐいを貼り付けておく。
「秘密外の○○
(○○論○○記)
今の○○軍○○事○当○○局○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○○と○○○云(い)ふ○○て○○○○新聞に○○○書○か○さぬ○○事に○して○○居るから○○○新聞屋○○は○○○○聴いた○○○事を○○○載せ○○○○られ○○得ず○○して○○丸々○○○づくし○の記事なども ○○○○多い○○○
是は○○つまり○○○当局者の○○○○○尻の○○穴の○○狭い○はなしで度胸が○○○無さ○○○過ぎる○○○○様○○○○だ
我輩○○が○○○思ふ○○○○には○○○○○軍○は○○元来○○○野蛮○○○○ な○○○○○事で○○○○○○あるから○○その○○○軍備○○○を○○○秘密○○にし○○○○て○○○敵○○○○の○○○○不意○○を○○○うつ○○○○ の○○も○○○○あな○○○○がち○○咎む○○○○べき○事○○○○○で○○○は○○ないが○それ○○○よりも○○○○門○戸○開○放○○の○○○○露 ○○○○○骨○○○主○○○義○○○○で○○○○○おれは○○○○○斯く○○○○斯く○の○○手段○○○○○○で○○○○○大きに○○うぬ○○ら○○○を ○○○○○○たヽき○○○○潰す○○○つもりだ○○○○○サー○○コイ○○○と正々○○○○堂々○○○○と○○○○○○進軍○○○○する○○○方○○が ○○男○○○らし○○○○○い○○○○様だ○○○○○」
ーーこれはスタンダール的ではないか?
私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。
急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)
ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)
後年、獄中で「何をしていましたか」と聞かれた外骨は「せんずりばかりをやっていました。せんずりでもやらぬと体が保ちませんよ」とケムにまいたが、人一倍の精力を持て余した外骨はマスターベーションしているうちに、研究熱心からいろいろな方法をあみ出した。
転んでもタダでは起きない外骨流がここでも発揮され、出獄後に『千摺(せんずり)考』として出版し、大評判となった。「ざこね千摺」「尻堀り千摺」「コンニャク千摺り」など四十八手を考え出して、千摺百科を紹介した。
『往来の千摺には二つあり。その一つは、途中であった女の美しさに淫心を起こして、ひそかにへのこ(ペニス)をかきて、独楽を試みる。また一つは道路の雪隠(トイレ)などに入り、往来をのぞき、通りかかる女の姿に目をとめて、千摺をかくのがコツなり』『女のあとをつけ、二,三町従いゆき、右の手を懐中に入れ、得手もの(ペニス)をひねくべし・・・、先のべっぴんの後姿を見ることゆえ、得てのもの造作なく、気をもちおーやけいづ(勃起してくる)』
『かくしてようよう気のいきそうな気分にならば,凡そにぎり××(ペニス)にて、早速に先に出かけて小便するふりにて立ちどまり、首を横へむけてその女の顔かたち、とりわけ股ぐらの窪みへ目をうつし、スカリ、スカリとかくべし』(「前坂俊之「地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える」より)
赤瀬川原平1972年 |
伊丹市立美術館は諷刺画家ドーミエの世界有数のコレクションをもち、「風刺とユーモア」を重要なコンセプトとして活動してきている(伊丹は江戸時代有数の清酒の産地であり、それにつられて多くの俳人が往来した。隣接する柿衛文庫がそうした俳諧・俳句に関するコレクションを核としているところにも、一種の一貫性を見てとれる)。いまはドーミエは見ることができないけれど、かわりにコレクション展の一環として「シャレにしてオツなり——宮武外骨没後60周年記念」展が開催されている。実は私は1985年に熱心な外骨マニアだった赤瀬川原平(1937-2014)を種村季弘(1933-2004)とともに囲むシンポジウムに出たことがあり、とっくに忘れていたその記録が去年およそ20年ぶりに活字になったところだった(「予は危険人物なり——外骨ワンダーランド」『文藝別冊・赤瀬川原平』河出書房新社、2014年10月30日)。千葉市美術館で10月28日から開催された「赤瀬川原平の芸術原論」展に合わせた出版だが、その展覧会のオープニングの直前、長く病床にあったアーティストの訃報が伝えられたのだ。展覧会(現在は大分市美術館で開催中、3月21日から広島市現代美術館にも巡回予定)は作品や情報が満載できわめて興味深いものだったし、ついでに言えば少し前に板橋区立美術館で開かれた「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展もなかなか面白いものだったが、それだけに生前の彼らにもっといろいろな話を聞いておきたかったという後悔の念は強まるばかりだ。とくに、早すぎた晩年の赤瀬川原平はもっぱらユーモラスな「老人力」の人として有名になり、過激な前衛としての顔が忘れられたかに見える。実は宮武外骨についても同様だ。たしかに彼の諷刺は「シャレにしてオツ」だったが、そのような「愛嬌」は「過激」と背中合わせだったのである。今回の外骨展にも、明治天皇ならぬ骸骨が大日本帝国憲法ならぬ頓智研法を発布する図が展示されているが、この骸骨の図によって外骨は不敬罪に問われ、未決拘留期間も含めて3年8ヶ月を獄中で過ごすことになったのだ(この図が墨で塗りつぶされた雑誌の頁も展示されている)。過激にして愛嬌あり。これが宮武外骨であり、そして赤瀬川原平であった。確かに、良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとウエルベックの『服従』」)
…………
荷風が「ヘチマオヤヂ」とその愉快な仲間たちの一人であるのは言うを俟たない。『断腸亭日乗』からすこしだけ抜き出せばかくの如し。
昭和二年正月元日。……燈下柳北の『硯北日録』万延元年の巻を写して深更に及べり。
昭和三年正月二日 晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拝墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り来りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雑司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け、歩みて音羽に出で関口の公園に入る
とはいえ、こういった記述はいくらでもあるので、また別の機会にし、ここではつい最近行き当たった中村光夫の評言をのみ記しておく。昭和二十九年に発表された志賀直哉論にある文章だそうだ。
・・・同じく現代日本に愛想をつかしながら、荷風の態度が志賀直哉のそれと殆ど正反対であることは誰でも認める筈です・・・荷風が骨の髄まで小説家であると同じ意味で志賀直哉は根本の資性において小説家ではないのです・・・(作家たちの熱海 志賀直哉、谷崎潤一郎、広津和郎、そして永井荷風)