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2016年12月23日金曜日

男女同権なんて言っている連中は偽善に決まっている

女はいかにしてフェミニスト主体になるか? 父権的言説によって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。「庇護」のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男性の「女性に対する心遣い」(食事代を払う、ドアを開ける等)を拒絶することによってのみ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しいーーポリティカルコレクトネスなーー表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006 鈴木晶訳)
人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということ。(柄谷行人『「歴史の終わり」と世紀末の世界』))

男女同権なんて言っている連中は偽善に決まっている。

 だが「男女同権」に騙されない者は間違える。

ラカンは言った、《騙されない者は間違える les non‐dupes errent》と。すなわち、もし人が、見せかけがあたかも現実的なものであるかのごとく振舞わなければ、かつまた、もし人が、その見せかけの有効性に煩されないままなら、事態はさらに悪化するということだ。すべての権力の記号はたんなる見せかけであり、主人の言説の気まぐれに依拠していると考える者は、ぐれた連中だ。彼らはいっそう疎外される。(Fleury, Le réel insensé、2010)

…………

※付記

人は直接的には大他者の不在を手に入れえない。人は先ず大他者に騙されなければならない。というのは、「父の名 le Nom‐du‐Père 」とは、「騙されない者は間違える les non‐dupes errent」を意味するからだ。「知を想定された主体」の錯覚 illusion への屈服を拒絶する者たちは、この錯覚によって隠されている真理を失う。

このことは、我々に「神は無意識的である」へと引き戻す。すなわち〈神〉(知を想定された主体としての神、大他者としての神、経験上のすべての受け取り手を超えた究極の受け取り手としての神)は、半永久的な、言語の構成的構造である。〈彼〉なしでは、我々は精神病となる。ーー〈神-父〉の場なしでは、主体はシュレイバー的妄想に陥る(Lacan, “La méprise du sujet supposé savoir,” 1968)。

「知を想定された主体」としての神は、この上ないものであり、大他者、真理の場の基盤的側面である。このように、大他者は神性のゼロレヴェルである。…《もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu—le dieur—le dire (神ー神話すー話す)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説 l'hypothèse Dieu はそこにあるだろう》(Lacan, Le séminaire, Livre XX: Encore)。

我々が話す瞬間、我々は(少なくとも、無意識的に)神を信じている。ここで我々は、ラカンの「神学的唯物論」に、最も純粋な形で遭遇する。発話行為(究極的には、我々自身)そのものが神を創造する。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
セミネールXX の決定的な箇所で、ラカンは苛立ちをもって認めている。神の仮説 l'hypothèse Dieu 宣言、すなわち、《誰かが何かを言う限り、神の仮説はそこにあるだろう》、かつまた《不可能なことだ、即座に、大他者の形式のなかに神を存在させる faire subsister ことなく何かを言うのは》ーーこれは容易に、ラカンに従う者たちに確信させてしまう、ラカンは神を信じている、と。( Lorenzo Chiesa, Psychoanalysis, Religion, Love,PDF)
自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう。(が)私は、女性の享楽を信じているんだよ…naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu : je crois à la jouissance」(Lacan,S20)