2017年1月3日火曜日

女というものをよく御存知の諸君、男女同権とすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ

諸君、我々一人一人が各家庭で夫の権威と権利を守り抜いていたら、こんなことにはならなかったはずですぞ。今や事態はここまで来た。女がのさばり、家庭でのわれわれの行動の自由を粉砕しただけではあきたらず、広場におけるわれわれの自由をさえ粉砕にかかっているのではないか。法が男性の権利を保証している間でさえ、女たちをおとなしくさせ、勝手なことをさせないために、どんなに苦労してきたか、よくお分りと思う。もし女どもが法的にも男と同等の立場に立つならいったいどうなることか、よくよくお考えあれ。女というものをよく御存知の諸君、かりに連中がわれわれと同等の地位に立つとすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ。どこの世界でも男たちが女を支配しておる。ところが世界の男たちを支配する男たち、つまりわれわれローマ人がだ、女たちに支配されることになるのですぞ」(大カトーの演説――ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」より)

限りなく面白い「ジャーナリスト」モンタネッリの『ローマの歴史』藤沢道郎訳からの孫引きだが、いやあ実に面白い。彼は上の文を引用した後、次のようなコメントを付している。

女性デモ隊はこの演説者に嘲笑を浴びせた。いつの世にも真実を語るものはこういう目に会うものだ。オッピウス法は廃された。

カトーは奢侈品に対する税を十倍に引き上げようと努力するがむだであった。ウーマンリブの活動家たちは、獲得したイニシアティヴを握りしめてはなさない。まず、持参金の管理権を獲得、女性の経済的独立と解放の巨歩を進める。ついで離婚の権利も手に入れ、子供という厄介者を避けるため、避妊術に多くたよるようになる。

このギリシア風の潮流に待ったをかけようとしたのがカトーである。こう言えば、口うるさい、気難しい、ごりごりの反動的道学者を想像するかも知れない。だが事実は反対なのだ。マルクス・ポルキウス・カトーは、リエーティ近在の農家の出で、はちきれそうなほど健康で陽気なおじさんである。多くの敵を作ってそれとの闘争を楽しみ、八十五歳の長寿をまっとうした。

もちろんこういう風に楽しく書いてくれているのは、カトーについてだけではない。

……私は、古代ローマの歴史家や記録者の著作をつぎつぎと読んでみた。化石を生き返らせるとはまさにこのことであった。学校で習った時は、硬直した姿勢を動かさず、人間というより抽象的なシンボルのようだった古代ローマ史の人物たちが、その金しばりの状態から一挙に抜け出し、生気をとりもどし、血と悪徳と表情と奇癖に彩られーーつまり、生きたほんとうの人間にもどったのである。……

ローマの歴史が偉大なのは、それが私たちとは違った人びとによって作られたからではなく、私たちと同じような人びとによって作られたからだ。……

かれらに対してなされ得る最大のあやまちは、かれらの人間的真実を、あたかもそれがかれらを矮小化でもするかのように、目をつぶって見ないふりをすることであると思う。とんでもないあやまちである。ローマがローマであるのは、その歴史上のヒーローたちが過誤や愚行をおかさなかったからではなく、かれらの過誤や愚行が、時にかなりひどいものであったとしても、ローマの覇権をゆるがすことができなかったからである。(モンタネッリ『ローマの歴史』「序」)

4、5回ほど読んだと思うが(1984年購入ーー母が死んだ年でありその一年半後に結婚している。すなわち当時は、大カトーの演説を「真摯」に受け止めていなかったようだ・・・)、その都度すっかり忘れているので、たまにはこうやってメモしておこう。敬意の表明のためにも。

また、《あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えている》(ニーチェ)にて、次のようにメモったところでもあるから。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(エリザベート バダンテール Élisabeth Badinter、PDF
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。.(ドリス・レッシング、Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists、2001)

ところで、ジャーナリストのモンタネッリのことである。つまり歴史家とは異なってーーいや歴史家だってたいていは疑わしいがそれでも歴史家に比べてーーはるかに信憑性は疑わしいと見なしたほうがいいだろう。

大カトーの演説をティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」から次のように邦訳をされている方がいるのでこれも併せて貼付しておく(参照)。

「男性諸君、女性達はオピア法で自由を奪われたと言うが、私達、男性も家では何をするにも妻にいちいち注意され、ヒステリックにまくしたてられ、まさしく奥方の専制政治によって自由を奪われている。だが、百歩譲って家では我慢しても他人の夫や父親がいる外の社会にまで主婦連中が踏み込んできてあのような暴挙を許していいものだろうか? よその亭主を捕まえてあんな口の利き方をするなんて。第一、この法律のどこが悪い? どの女性も競って着飾る必要もなければ、裕福な女性も貧しき女性も似たような質素な服装をすればどちらも貴賎の違いを感じることなく恥をかくこともない。

ところが、裕福な女性達は、『どうして私達が貧しい人達のレベル(水準)にまで格下げしなくちゃならないの? そんなの絶対に耐えられないわ。それにそんなことをしたら、それこそ貧しい女性達が私達と同じような“ブランド品を身につけて自分達の本当の貧しさを誤魔化す”なんてことができなくなるじゃない』と全くひどい事を言う。

男性諸君、一体、いつまでこんな事を許していられるのだ?このままだと裕福な女性は誰も買えないような高い品物を『もっと、もっと』と求め続け、貧しい女性はその貧しさを蔑まれないよう無理をして裕福な女性達が持つのと同じようなブランド品をせっせと漁り続ける。

今ではこの傾向が行過ぎて女性達は“恥ずべき事を恥じず、恥じなくてもいい事を恥じる”ようになってしまった。そうして、自分が努力して稼いだ金で自分の欲しい物や望みを手に入れようとするならまだしも、それができない女性はすぐに自分の夫や父親、息子にねだろうとする。しかも、今度はよその亭主にまでこのオピア法の廃止議案を議会に提出してくれとねだる始末だ。だったら、彼女達の要求通り、このままオピア法を廃止してしまったらこれまで以上に女性達の我がままと贅沢に歯止めがかけられなくなるだろう。
“賢明なる市民よ、今一度、わたしは言おう。憲法であれ市条例であれ、法律なんて変わろうが変わるまいが、きっと今までと同じような生活や社会が続くだろうなんて甘い事を考えないで欲しい。何より悪事を行う者にとっては人から批判されたり、規制されたり、あるいは裁判にかけられて悪事を認めるよう責められるより、自分達に都合の悪い規制を緩和、あるいは撤廃してもらって誰からも何も言われない方がよっぽど安心なのだから”。
ならば、女性達の要求をよく考えもせずこのまま受け入れてしまったら、それこそ鎖で繋いでいた獰猛な獣を外に放つのと同じことにもなりかねない。それゆえ、わたしはどうあってもこのオピア法廃止議案について反対票を投じる。だが、ここにおられる男性諸君が賢慮の末にどのような票決を出そうともそれがこの国に繁栄をもたらさんことを心から祈ります」(ローマの歴史家ティトゥス・リウィウス(BC59−AD17年)著「ローマ建国史34巻」、Rev. Canon Roberts翻訳Bruce J. Butterfield氏のインターネット版テキスト参照)