2016年11月28日月曜日

人間の宿命:「愛されたいという要求」

3 週間ほどまえ子犬が3 匹生れた。今まで4 匹生んだり5 匹生んだりしていた母犬は、今度は3 匹で、母乳の配分が多いせいか、子犬たちの成長がいくらか早い(気がする)。もうよりよち歩きをし始めた。

子犬は(基本的に)すこし大きくなったら人にあげてしまうのだが、ときに全部あげてしまうのは忍びなく1 匹残したりすると、どんどん増えてしまう。現在5 匹いる犬とこの赤子の犬3 匹をふくめて8 匹。さて1 匹残すべきか。

赤子の犬が育つ様子を観察するのが私はとても好きで、彼らはとってもエライーーと感じる(人間の乳幼児に比べてという意味合いでだが)。空腹になって泣き叫ぶと母犬が訪れる。そうすると誕生直後からみずから這って母の乳房に吸い付く。人間の乳児は母が口元まで乳房をもっていかないと乳を吸わない(たしかそうだったはずだが、人間の赤子のほうは3匹3度、ときたま観察しただけだ・・)。

これらはかつては、ボルクのネオテニー(幼態成熟)説やポルトマンの早産説などによって説明されてきたのだが、ラカンによって、「出生時の特異な未熟性 (prématuration spécifique de la naissance)」とか、「原初的不調和(une Discorde primordiale)」、「寸断された身体(corps morcelé)」などという表現で言われる現象でもある。

あるいはフロイトによって、寄る辺なさ(無力さ Hilflosigkei)や依存性と呼ばれたものである。 

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ Hilflosigkeit と依存性Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365)

《人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮》されているとあるが、犬は2か月ほどで生まれるじゃないかなどと言ってしまってはならない。これは相対的時間のことで、犬の時間と人間の時間は異なる。




犬の1年が人間の15歳であるなら、誕生直後の犬の 1か月は単純計算しても(15÷12)、1歳 2ヵ月強である。とすれば母胎のなかにいる 2 か月は、人間換算の 2 年半程度ということになる。

いずれにせよ人間は《失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象》である母が、《極度にたかい価値をおびてくる》動物であるのは間違いないだろう。そして原初の無力感(寄る辺なさ)はのちになっても、たとえば承認欲求という形で生涯尾を引く。

前期ラカンが,「欲望は承認欲望 désir de reconnaissance」、あるいは「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir.E.151」と言ったのは、直接にはコジューヴ経由のヘーゲルが起源であるには相違ないが、とはいえ同時にフロイトの「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」とともに理解することもできる。

だからわれわれの承認欲望をナイーヴに否定するのは馬鹿げている。それは、われわれの原初からの宿命であり、のちに変奏ーー昇華・置換などーーによって、その原宿命が隠蔽されているだけなのだから。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらが原初の対象a(objets a primordiaux)の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(ミレール、2013,JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre)
作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

人間の原初の寄る辺なさ、愛されたい要求とはーー厳密さを期さずに言えばーー「反復強迫」の起源のようなものでさえある。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動の概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ジャック=アラン・ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

ここでフロイトの死の枕元にあったとされる『精神分析概説』草稿(死後出版1940年)からも引用しておこう。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。(……)

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』 Abriß der Psychoanalyse 、私訳)

もっとも上の文をナイーヴに読んではならないのであって、すなわち反復自体は母への愛を反復するのではない。ひとつ前のミレールの文にあるように、欲動の固着という徴ーーこれを「一の徴」ともいい、原抑圧=原固着でもあるーーが我々人間の反復の起源であると、おおむねラカン派では言われる。だがこの徴とは結局、乳幼児にとって(殆どの場合)最初の大他者である母によって刻印された「徴」である。

その徴は、裂目clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる(ラカン、S17)

この「一の徴」とは、シニフィアンの起源であり、反復の徴である。

「一の徴」の機能 la fonction du trait unaire、それは徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque であり、シニフィアンの起源 l'origine du signifiantである。(ラカン、S17)
「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19)
・反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(S.17)

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)

ーー《人は享楽の侵入(奔馬)を「一の徴」の鞍で以て飼い馴らそうと試みる。》(ヴェルハーゲ、2001)

ーー《フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

ラカン最晩年のサントーム概念さえもおそらく「一の徴」の変種である。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

…………

フロイトの「擬装された自叙伝」といわれることもある『夢解釈』に、《不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望》という表現がある。

(わたしの夢)……なぜ私が日中思想の、ほかならぬこの代用物を選ばなければならなかったのか。これに対しては、ただ一個の説明があるのみであった。R教授との同一化に対しては、この同一化によって不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望が充足させられるのであるから、私はすでに無意識裡にいつもその用意をしていたのである。(フロイト『夢解釈』高橋義孝訳)

この「えらくなろう」というのも「愛されたい」の変奏だろう。

わたくしはフロイトを比較的よく読むほうだが(もちろん一般の人に比べてという意味で、専門家のようにでは毛ほどもない)、長いあいだ頭像を作らせたはいけない、なんとはしたない!と思っていた。




だが情状酌量の余地は十分にある、と今では考えている。

十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」(フロイト『夢解釈』)