2017年3月1日水曜日

21世紀の「想像的ディスクール」流行

藤田博史の内田樹批判から引用するが、ツイッターなどでみる言説は大半この「想像的ディスクール」だろう。若い人たちはもはやこれが当然になってしまっているのではないか。

……つまり、最初に相手の主張を自分の都合の良いように改変する。読者に共感してもらうために、大概は「×××原理主義」であるかのように捏造する。そして捏造された「×××原理主義」の極端さや権威主義的な側面を批判する。このトリックに引っかかった読者はその語りに乗ってくる。彼の語り口は意図的に「上から目線」ではなく「下から目線」であるかのようになされ、日常のなかで「上から目線」で圧迫を受けている人たちの共感を引き出す。そして、わたしは読者の味方ですよ、原理主義、上から目線、いやですね〜、と読者を引き寄せる。あらかじめ自分で批判用に捏造しているのだから、批判できるのは当たり前である。

 つまり内田樹が誰かを批判する場合、その手口は一定のパターンがある。それはこんな風だ。原理主義的仮想敵の捏造→原理主義に対する批判→自分は極端に走らないバランスの取れた人間だという自己宣伝、で結ぶ。あらかじめ読者を味方につけるために、意図的に相手の主張を都合よく捏造する。ここに見られるのは「自作自演」という常習的に嘘をつくという病的な傾向をもった人たちがよく使う手法とまったく同じである。(……)

内田樹の文章は、客観性に乏しく、一人芝居的。殆どの話題や対象は、自分流に改変され、あたかも幼児が玩具を自分の周りに散らかして、そのなかで空想物語を作り続けているようだ。自分の空想のなかで、対象どうしの関係を想像的に決めて語り続ける。語りは「私は~」という一人称で連続してゆく。つまり、論考自体が自閉的な性質を持っている。精神分析ではこういう語りを「想像的ディスクール」と呼んでいる。すべての価値は判断主体である「私」との双数的関係のなかで決まっており、何でも言えるし、何を言っても仕方のない領野である。

したがって、「私」の物語は外部に向かって開かれていないので、時々その信憑性を確かめたくなって、外の世界にちょっかいを出すのだろう。そしてすぐ自分の殻のなかへと避難する。子供がよくやる「ピンポンダッシュ」に見られるような、幼児的な自我の防衛機制である。……(藤田博史→‎内田樹

この想像的ディスクールにかかわる藤田スキーマは次の通り。




ようは象徴的ファルスΦ を迂回してAs(見せかけ semblant)の介入を通しての(φ)⇔(− φ)のディスクール、つまり自分の想像的オチンチンに話しかけているというわけだが、若い人のツイートならことさら、これを免れている鳥語を見出すのが難しい。

(φ)⇔(− φ)とは、 i(a) ⇔ i'(a)と相同的であり、鏡像段階的ディスクールということになる。



これは「私に似たsemblant」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちとの関係にある言説ということでもあるけれど、もはや言説環境自体がそうなっているのだから、文句を言ってもどうなるものではない。もはやあきらめたほうがいいんじゃないか。

そもそも日本社会においては、その言語構造により自我理想(象徴的ファルス)は正常に機能しないという観点さえある(参照)。時枝誠記の「日本語は敬語的」とは日本語はイマジネールファルス的(二項関係的)という意味である。

現在「父の名」の斜陽により世界的に二項関係的になりつつあるるのだが、この意味では、日本は想像的ディスクールの先進国とさえ言える(かつてからの「いじめ天国」とはその一つであり、現在世界的に陰湿な「いじめ」増加が起こっている)。

ーーと記して想い起したが、中井久夫の実にすぐれた日本文化論の断片を引用しよう。

……日本文化に内在するいじめのパターンがあるのではないか。戦時中のいじめーー新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。(……)

こういうものは何によって生まれるのか。私には急に答えられないが、思い合わせるのは、実験神経症である。些細な差にたいする反応のいかんによって賞か罰かが決まるような状況におけば、無差別的な攻撃行為や自分を傷つける行為が起こる。新兵いじめでは些細な規律違反が問題になった。御殿女中では些細な行動が礼儀作法にかなっているかどうかが問題になった。連合赤軍では些細な服装や言葉づかいが、かくれた「ブルジョア性」のあらわれではないかと問題になった。いずれも、閉鎖社会であり、その掲げる目的を誰もほんとうには信じていない状況であった。

戦時中の教師はよく殴ったが、それで日本精神を注入して戦争に勝てるとはほんとうに思っていなかったにちがいない。人間は、自分が信じていないということを自覚しないで、信じているぞと自他に示そうとするとかなり危険な動物になる。

もちろん、信じていないことをしなければならないことはしばしば起こる。誰もが英雄ではないし、英雄には英雄の問題がある。最低、必要なのは、自分の影をみつめることのできるユーモア精神だと私は思う。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年初出『記憶の肖像』所収)

ツイッターでしばしば起こっているじゃないか、今でも。わたくしは上野千鶴子さんの味方ではけっしてないほうだが、最近でも上野叩き、--あれは、彼女の挑発文を「敢えて」文字通りに受け取っての、日本的「いじめ」の一種でなくてなんだろう?

さて話しを戻して、想像的ディスクールにおける競争・文句・嫉妬・ナルシシズムとは次のようなものである。

【競争】:ボクは連中よりももっとファルス(想像的ファルス)を持っているよ
【文句】: あの人たちは、アタシにじゅうぶんにファルスをくれないの…
【嫉妬】: ボクじゃないんだ、連中のほうがファルスを持ってるんだ……
【ナルシシズム】: ボクはファルスを持ってるさ /アタシはファルスよ

ツイッターなどにおいてこれらから免れている稀な例外はーー詩・俳句的囀りとか、引用とかを除けば、ーー年配層を中心に生き残っている大きなファルス(象徴的ファルス Φ)囀りだろう(上の想像的ファルスとは小文字 φ で記される)。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

どっちがいいかってのも考えもんだからな、権威的ファルス囀りと想像的オチンチン囀りと。(←この語り口が想像的ディスクールである。鏡像的関係を取り結ぶ「私の同類たち」と互いに湿った瞳を交わし合い頷き合うために好都合の言説・・・)

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)

問題はエクリチュールなどと言っていたら、この時代には商売にはならないことだ。

「いいものは売れなくて当然(蓮實重彦ーー「愚かさに対するほとんど肉体的な厭悪/蓮實重彦×磯崎憲一郎」2015年)

商売にならなくていい人はそれなりにいるのだろうが、他者の共感を引き出せないことに耐えうる人はおそらくそれほどいない。

※補足:資本の言説と〈私〉支配の言説