・短篇集『愛国者たち』は、人を不条理な絶句ぶりへ導くしかないただならぬ言葉を宙に漂わせ、『美しい』という一言を口にせよと強要してかかる。
・文学という制度的な場にあって、『山川草木』『風景小説』といった作品群の口にする言葉が(……)まるで声として大気をふるわせることを恥じているかのように、言葉が生まれ落ちようとする瞬間に口をつぐんでしまうがゆえに、これは途方もなく『美しい』のだ。
・藤枝にとって、書くとは、無限の『分枝』を演ずる言葉を前にした不断の『迷い』そのものであったはずだ。そのおぼつかない仕草を模倣しつつ、だからわれわれも『迷う』姿勢をうけ入れ、『作家』藤枝静男の言葉をただ『美しい』とだけ書いておこう。(蓮實重彦)
蓮實重彦の強烈な「恋文」である。
人がこのような強い愛を抱くほとんどの場合、その原因は作品の質に由来するだけではない。作品に彼が書き込まれているから、強い愛が生まれる。その徴をーードゥルーズ的には純粋現前 présentations pures ・純粋差異 pure différence ーー、たとえばフロイトなら「一の徴einzigen Zug」といい、ラカンなら同じく「一の徴 trait unaire」、「一のようなものがある Ya d’l’Un」(純粋差異 différence pure)、あるいは対象a、ロラン・バルトならプンクトゥムと呼ぶ。
フロイトの《同情は「一の徴 einzigen Zug」との同一化によって生まれる》とは、愛は「一の徴」との同一化によって生れると言い換えうる。
次のラカン文の眼差しとは、欲望の原因としての対象aのひとつである。
…眼差し regard は、例えば、誰かの目を見る je vois ses yeux というようなことを決して同じではない。私が目すら、姿すら見ていない誰かによって自分が見られていると感じることもある。Je peux me sentir regardé par quelqu'un dont je ne vois pas même les yeux, et même pas l'apparence,。他者がそこにいるかもしれないことを私に示す何かがあればそれで十分である。
例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かがいると私が思うだけの理由があれば、その窓はその時すでに眼差しである。こういう眼差しが現れるやいなや、私が自分が他者の眼差しにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違うものになっている。(ラカン、S.1)
愛する芸術作品があなたを眼差すことを経験したことがないだろうか ? もしあったなら、それが対象aでありプンクトゥムである。
ロラン・バルトのプンクトゥムについては、ジャック=アラン・ミレールが最近になって、プンクトゥムはラカン=アリストテレスの 「テュケーTuché」だといっているが( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)、『明るい部屋』のなかに、《「偶然 la Tuché」の、「機会 l'Occasion」の、「遭遇 la Rencontre」の、「現実界 le Réel」の、あくことを知らぬ表現》とあり、まさにセミネールⅩⅠにおけるラカンの言葉をそのまま使用している。これは、後年のラカンの《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)、あるいはトラウマ(穴ウマ troumatisme)でもある。
ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(『明るい部屋』)
《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》。
たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(『明るい部屋』)
ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋表象 représentation pure である。ーー「偶然/遇発性(Chance/Contingency)」
さらにはこうも引用できる。
「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないだろう……読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。(同『明るい部屋』)
対象aもプンクトゥムも「あなたの中にはなにかあなた以上のもの」であり、「自我であるとともに、自我以上のもの」である。
あなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉 quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a)(ラカン、セミネール11)
……自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だった。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait). (プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ』「心情の間歇」)
…………
藤枝静男の作品に蓮實重彦のプンクトゥムが書き込まれているのは、すこし読むだけで瞭然とする。
金剛石も磨かずば
珠の光は添はざらん
人も学びて後にこそ
まことの徳は現るれ
これは昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭の四行であるが、章は小学生のじぶんに女の教師から習って地久節のたびごとに合唱していたから、今でもその全節をまちがいなく歌うことができるのである。
そのとき章は、この「たま」とは金玉のことであると一人合点で思いこんでいた。それで或る日父に
「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」
と訊ねた。すると父は、
「なによ馬鹿を言うだ」
と答えた。しかし後々まで、不合理とは知りながらも、章の脳裡には、裾の長い洋服に鍔広の帽子をかぶった皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景が残った。今でもこの歌を思い出すたびに(ごく微かにではあるが)同じ映像の頭に浮かぶことを防ぎ得ないのである。
こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。
次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970初出)
藤枝文学においてその父親のイメージがまとっている鮮烈な抒情、そして愛と呼ぶにはあまりに寡黙なその言動につつまれて藤枝少年が過ごした大正期の東海地方の風景といったものの美しさについては、すでに度々書く機会を持ったので、もう繰り返すにはおよばない。『藤枝静男著作集』も刊行され始めたので、まさに「毅」の一語がこの作者のために存在しているとしか思えない文章に、じかに触れていただくことにする。と、ここまで書いてきた瞬間、机上の電話が鳴って、受話器のむこう側から、遂に藤枝さんに確定しましたというはずんだ声が鼓膜をふるわせる。本年度の谷崎潤一郎賞が、藤枝静男氏に決定したというニュースを、親しい編集者の安原顯氏が知らせてくれたのである。われわれは、こんなとき誰もが口にする祝福の言葉をかわしあってたがいの喜びを確認しあうのだが、しかしその喜びには、どこかがっかりしたような調子がただよっている。すでにその名声が高まっているとはいえ、これを機に、あれほど絶版が続いて読むのがむずかしかった藤枝文学が、とうとう読者の前にいかにもたやすく投げだされてしまうことを、二人してそれと口にせずに惜しんでいるようだ。
そうか、藤枝氏が谷崎賞を受賞されることになったのか。まるで年甲斐もない恋文のような藤枝静男論を発表したばかりのころ、安原氏の後について行って一度だけお逢いしたことのある藤枝氏に心からの祝福をささげながらも、これでは何かできずぎているような気がする。この一文を『欣求浄土』の「土中の庭」の冒頭の挿話から始めたものの、残りがどんなふうに書きつがれ、どんなふうに書き終わるのか、不意にわからなくなってしまう。藤枝氏にならって、「こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない」と書き記し、しかしいつとはなしに一篇がいかにも「毅」の字にふさわしく書きつがれてゆく言葉を絶ち切るといって芸当はどうもできそうにない。いったい、どうすればよいか。(蓮實重彦「皇太后の睾丸」『反=日本語論』所収)
《昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭》、そして《藤枝少年が過ごした大正期の東海地方の風景》とあった。
蓮實鉄太郎
正五位勲三等功四級
明治5、旧黒羽藩祐筆、栃木県士族・蓮實啓之進の長男
陸軍士官学校
陸軍歩兵中佐、静岡俘虜収容所長
蓮實重康
明治37、鉄太郎二男
蓮實重康(はすみ しげやす、1904年5月30日 - 1979年1月11日)は、日本美術史学者、元京都大学教授。東京市麻布生まれ。
旧制静岡中学、旧制静岡高等学校を経て、1930年京都帝国大学哲学科(美学専攻)卒業、同大学院進学、1932年帝室博物館美術課嘱託、1941年同鑑査官、出征ののち、1952年奈良国立博物館学芸課長、1957年京都大学文学部助教授、1960年教授。1961年 「雪舟等揚―その人間像と作品」で京都大学文学博士、1968年定年退官、東海大学文学部教授。
東大総長を務めた蓮實重彦の父。
妻・田鶴子
大正2、内大臣秘書官・小野八千雄二女
小野八千雄 従五位勲四等
明治11、長野、小野八雄長男
昭和3、家督相続
長野県立中学卒
宮内省東宮職、掌典、皇太后宮職御用掛、内大臣秘書官
蓮實重彦の父蓮實重康は、1904年生れとあった。
藤枝静男(ふじえだ しずお、1907年12月20日 - 1993年4月16日)は、日本の作家、眼科医。本名勝見次郎。静岡県藤枝出身。
成蹊学園から名古屋の旧制第八高等学校を経て1936年に千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)を卒業。伊東弥恵治に師事した。勤務医生活ののち独立、1950年から浜松市で眼科医院を営む傍ら、小説を書き続けた。1968年『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、1974年『愛国者たち』で平林たい子文学賞、1976年『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、1979年には『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。
だが、《こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない》。
こういった事実関係を《精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである》(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)
とはいえ最も肝腎なのは次のことである。
我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている A demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-même par une autre moitié que seul nous pourrions connaître》(プルースト)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。
我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
《われわれ自身の内部にのびている》最も美しい出会いを深めた批評文が蓮實重彦にあったか否かは、あなたの判断にお任せする。
(ここで丸括弧付きでこっそり挿入しておくが、蓮實重彦の藤枝讃における「美しい」の連発は、「ブラボー」連発とどう異なるのか? ーーという問いがあってもいいはずである、もっとも次のようにオッシャッテオラレルのを知らないわけではない・・・、《‟美しい”という言葉を僕はよく使うことがあるんだけれども、その「美しい」という言葉は全部フィクションで、現実の美しさにも、共同体が容認するイメージにも絶対に到達することがないと確信しているがゆえに使っているにすぎないのです》(『闘争のエチカ』))。
いずれにせよ『反=日本語論』はーーいまでは言及されることが少ないがーー、蓮實が最も直接に自らの内部にのびている何ものかに近づいた書き物のひとつに他ならない、とわたくしは思う。
誰もが「金剛石を磨かずば」の歌に似た一人合点の勘違いの体験を持っているはずだ。そして、後にその誤りが正されてからも、当初の勘違いが「ごく微かにであるが」生き伸びたりするものだ。たとえばその後に獲得しえた漢字の知識によって「シャベルで掘る人/鶴嘴で掘る人/道普請の工夫さん/一生懸命働く」と再現しうる奇妙な歌を戦時下の幼稚園で声をはりあげて何度もおさらいをしていた少年にとって、銃後のまもりを強調するものであったのだろう「道普請の工夫さん」の一行は、セーヨーケンとかマツモトローとかに類する西洋料理屋の一つミシブチンで働くコックさん以外のものでありえようはずもなかった。それだから、白く長くとんがり帽子を頭の上で揺さぶりながら甲斐甲斐しく働く何人ものコックたちが、シャベルやツルハシで何やら大きな鍋をかきまわしている光景が、今日に至るも心のかたすみにごく曖昧ながらも消えずに残っている。
藤枝氏にならって「次手に言うと」、このミシブチンの少年の頭脳は、ゾケサなるもののイメージをもありありと思い描くことができる。「明けてぞ今朝は/別れ行く」という『蛍の光』の最後の一行に含まれる強意の助詞「ぞ」の用法を理解しえなかった少年は、なぜか佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、何頭も何頭も、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を、卒業式の妙に湿った雰囲気の中で想像せずにはいられないのだ。ゾケサたちは、たぶん彼ら自身も知らない深い理由に衝き動かされて、黙々と親しい仲間を捨てて別の世界へと旅立ってゆくのだろう。生きてゆくということは、ことによると、こうした理不尽な別れを寡黙に耐えることなのだろうか、可哀そうなゾケサたちよ。(蓮實重彦『『反=日本語論』)
もちろんこのエッセイ集をわたくしが愛するのは、最初に蓮實重彦という人物の書き物を読んだのがこの書でありーー学生時代四畳半の下宿の万年床で寝転がって読んだことまで覚えているーー、わたくしの対象aがこの書に書き込まれているせいでもある、ということが言える。その対象aは上に掲げた文ではないが、--《ああ、久しぶりに、海がみたいと妻は時折り嘆息する。ああ、海がみたい。》