私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」)
わたくしが一人称単数代名詞を「わたくし」と記すのは、綿串という漢字表象を暗示するためである。すなわち空虚のシニフィアンを。あるいは女性の論理の主語である $ を暗示するためである(参照)。
ラカンの幻想の式 $ ◊ a にあらわれる $ / a とは、要素のない空虚の場/場のない過剰の要素、あるいは述語のない主語/主語のない述語のことである。
このいわゆるヒステリーの言説、だが究極的には女性の論理の言説は、ラカンの次の言明とともに読まなければならない。
女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、 S18、20 Janvier 1971ーーーー真理と嘘とのあいだには対立はない)
もちろん女性の論理とは、シェイクスピアの言明とともに読んでもよろしい。
この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)
いずれにせよディスクールの核心は次の通り。
…全核心は、女はファルスに接近する別の仕方、彼女自身にとってのファルスを保持する別の仕方を持っていることである。女が「全てではない pas du tout」のは、ファルス関数において「非全体 pas toute 」であるからではない[parce que c'est pas parce qu'elle est « pas toute » dans la fonction phallique qu'elle y est pas du tout.]
女はそこで「全てではない 」のではない [ Elle y est pas « pas du tout »](ヘーゲル的二重否定・「否定の否定」:引用者)。
女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein] 。 しかし何かそれ以上のものがあるのだ mais il y a quelque chose en plus…
ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼方の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
これにまったく不感症で男性の論理のみに耽っている連中を、現代の「天動説的タワケ」と呼ぶ。
ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、2012ーー形式化の極限における内部崩壊)
言い換えればーータワケにも分かるように言えばーー、綿串というシニフィアンは、「僕と私と俺」という代名詞を使うとき陥りがちなイマジネールな夜郎自大を極力避けるためでもある。《私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。》(ロラン・バルト『声の肌理』)
自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)
ーーようするに上のような観点が微塵もない連中である。物理学者ニール・ボーアは《杖を持つ人がゆるく杖を持つ時、杖の動きは地面の凹凸を反映し、杖は観測対象に屈する。逆に堅く持つ時、それは観測主体の動きを反映する》と言っている。科学精神とは本来このようにあるべきなのに、なぜネット上ではとんでも反科学的鳥語をするのだろうか? 「綿串」にはまったく理解不能である!
いやいまのは馬鹿向けのレトリックであり、実はあのようにタワケがふえたわけを知らないわけではない、科学とともに、《 進歩とともに、愚かさもまた進歩する! 》(フローベール)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
ここでタワケのためにこう強調しておかねばならない、この記事自体、空虚なシニフィアンが主語であると。
私は相対的にはタワケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にタワケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S.24,17 Mai 1977)
We are the hollow men
We are the stuffed men
Leaning together
Headpiece filled with straw. Alas!
俺たちのなかみはからっぽ
俺たちのなかみはつめもの
俺たちはよりそうが
頭のなかは藁のくず、ああ!
ーーエリオット「うつろな人間 the hollow men」より 高松雄一訳