ぼくが考えたのは、形式体系をそれ自体自己言及的パラドックスに追いやって崩壊させることであり、同じことですが、自己言及的パラドックスを排除して成立している形式体系に、そのようなパラドックスを導入してしまうことです。
形式体系をそれ自体自己言及的パラドックスに追いやって崩壊させることであり、同じことですが、自己言及的パラドックスを排除して成立している形式体系に、そのようなパラドックスを導入してしまうこと(柄谷行人、『批評空間』1996Ⅱー9)
これは柄谷自らが言うようにドゥルーズ的でもあるが、ラカン派的でもある。たぶんある時期の思想家は必然的にこのように考えることを余儀なくされたーー主に構造主義に対抗して考えるためにーーのだろう。
もうすこし長く引用しよう。
柄谷)ぼくは80年代の初めぐらいに形式化ということを考えていて、そのとき案外ドゥルーズのやっていることに近いところにいたという気がする。
ぼくの考えでは、構造主義もその一つですが、形式主義というのもすべて独我論なんです。形式というのは自己そのものを形成するものですが、それ自体は、自己の内省から出発して初めて見出される。独我論を否定するように見える構造主義は、それ自体独我論であることをまぬがれない。
どうすればそこから出られるか。そこでそれぼくが考えたのは、形式体系をそれ自体自己言及的パラドックスに追いやって崩壊させることであり、同じことですが、自己言及的パラドックスを排除して成立している形式体系に、そのようなパラドックスを導入してしまうことです。そこに出てくるものは、まさにドゥルーズがいうリゾーム的多様体です。
そのような形でしか独我論を破壊することはできないと思っていたんだけれども、そのこと自体も独我論だということで(笑)、そのへんからぼくは衰弱してしまった。それから二年ぐらい経って、根本的に態度を変えてしまったというのが、『探求Ⅰ』なんです。だから、その前の段階は、すれ違いにすぎないとはいえ、いちばんドゥルーズに近いところにいたのではないかと思います。
浅田)『意味の論理学』の前半、そして、それを凝縮した、「構造主義はなぜそう呼ばれるのか」と訳されている、あのシャトレ編の哲学史の中の驚くほど明晰なテキスト(73年)には、まさにいま言われたような面がいちばんはっきり出ていますね。構造というものを、それを成り立たしめているパラドキシカルな要素まで含めて考えていくことで、動態化していく―――ただし、ドゥルーズは構造主義自体をそういうパラドックスまで含めた動態的なものとして定義しているわけですけれども。
柄谷)あれをやると病気になりますよ(笑)。でもドゥルーズは病気にならないんだからすごい。
蓮實)というのは、彼は根本的には形式というものを問うていないからだと思いますよ。
浅田)いわば、輪郭線の引かれていない構造、蚊柱のような多様体としての構造を考えているわけですからね。その上でなお、柄谷さんの言われた対応関係はある程度まで成り立つと思いますけど。
柄谷)たしかに、そこはもともと違うんだと思う。彼の考え方の基本は、さっき浅田さんの言われた超越論的経験論、とくにベルグソンのラインなんですよ。ぼくの場合、外部という以上は線が引いてあるけど、彼の場合、そこには線がない。彼は物体というのはないと言っているけど、ぼくはあると思っているから(笑)。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)
…………
ラカン派的としたのは、次の一連の引用を読めば、判然とするだろう。
近代科学にとって……、自然は、科学の数学的公理の正しい機能に必要であるもの以外にはどんな感覚的実体もない。(ジャン=クロード・ミルネールJean-Claude Milner, Le périple structural, 2002、私訳)
近代科学は…対象の数学化を要求する。それは対象が数学的本質であることを要求しない。したがって対象が永遠・完璧であることを要求しない。……むしろ、反対に、数学化の手段によって、対象の把握を目指す。数学化において、対象はそれ自体と異なることもありうる。対象は、実験上の、偶然的・反復的、したがって一時的な性質をもちうる。(同ジャン=クロード・ミルネール, 2002、私訳)
数学・科学は、「物質性の還元」、「自然の現実の忘却」 を基盤としている。まずそれを認めなくてはならない、世界は数学的「言語」で構造化されていることを。ラカン派の見解はこういったことだろう。
物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](ラカン、S16、20 Novembre 1968)
科学も我々の日常言語による使用によるリアルからの解離も、構造的には同一である。
ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
表題の 「形式化の極限における内部崩壊」とはまずは柄谷行人の考え方であるが、ラカン的には以下の文に現れる《数学的論理 logique mathématique》による《論証的亀裂 clivage discursif》と相同的である、とわたくしは思う(数学にも科学にもまったく不案内な者として言うが)。
我々は次の事実の視界を見失うべきではない。すなわち、科学によって探求される構造、《リアル、その内部に言説自体が帰結をもたらすものとしてのリアル réel dans lequel le discours lui-même a des conséquences 》(ラカン、S16,1968:以下、二重山括弧内は同様)は、同時に《最もリアルなもの le plus réel…全く隠喩ではなくnulle métaphore…リアル自体 le réel même》であるという事実を。
言い換えれば、《必然性と偶発的なものの多様性を以った帰結概念自体 la notion même de conséquence avec ses variétés du nécessaire ou du contingent》、ーーつまり蓋然的偶然としてのオートマンーーは、科学の言説によって為される言語の「物質性の還元 Réduction de matériel」と共存する。すなわち、「自然の現実の忘却 l'oublie comme réalité naturelle」を伴っているにも拘らず、それをそっくり保存し続けている。
我々はここで新しく意想外の観点を提供されている。「科学と真理」が、因果性の物質的次元の科学による排除と精神分析の共謀的ヴェール剥ぎ(科学の言説の覆いを取り除くこと)と定義したことについての予期されなかった転回である。それ自体としてどんな帰結もない。ゆえに必然性と偶発性とにあいだのどんな区別もない。非言語学的性質だけではなく、自然言語としての言語の水準においても同様である。すなわちーー非論証的/論証的ーー世界は、無因果(あるいは対象aの因果 l'a-cause)的である。事実、そのような区別は、ラカンが明記するように、全体化するメタ言語、つまり《数学的論理 logique mathématique》の導入を要求する。それは、自然言語としての言語のなかのメタ言語の欠如として現れるものを補填しようと努めることによって、《論証的亀裂 clivage discursif》を生み出すことに終わる。というのは《どんな論理もすべての言語を囲い込むことはできない pas plus de logique qui enserre tout le langage》から。(ロレンツォ、2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)
次に上の引用にあるラカンのセミネール16の二年後のセミネール18から。
分節化ーー見せかけsemblantの代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが実在 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が実在 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。
科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。
しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。
この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)
《科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく le discours scientifique progresse sans plus même se préoccuper s'il est ou non semblant》
ーーとあるが、凡庸な科学者は実にそうであって(「論理哲学者」と呼ばれる種族のなかにもその類がふんだんにいる)、そのため(一部の人文系から)バカにされる(たとえば斎藤環による茂木健一郎批判)。
真にすぐれた科学者はそんなことはないはずである。
…………
※参照:ゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ
ここで記したラカンの立場とは、例外の論理/非全体(非一貫性)の論理(男性の論理/女性の論理)の後者にかかわるが、柄谷行人は次の二項の後者に依拠していると思われる。
・カントの力学的アンチノミー /数学的アンチノミー(否定判断/無限判断)、
・ヘーゲルの規定的反射 bestimmenden Reflexion/反射的規定 reflexive Bestimmung、
・マルクスの唯物論的弁証法 materialistische Dialektik/弁証法的唯物論 dialektischen Materialismus
ウィトゲンシュタインの家族的類似性Familienähnlichkeitにもかかわる(参照)。
私が前々回のお手紙で、クオリアという発想をナルシシズムと結びつけたのは、それがどうにも“天動説の現代版”に見えてしかたないからです。どういうことでしょうか。つまり、事 象を観察している自分のポジションをあくまでも不動の中心に据えている、という意味において、です。この種の“自己中心性”と、それを補強する実感主義こそが、ナルシシズムにほかならないと私は考えるのです。(「斎藤環ー茂木健一郎の往復書簡」)
真にすぐれた科学者はそんなことはないはずである。
J・ブローフスキー博士は、われわれの大部分があらゆる学問の中で最も事実に基づく科学だとみている数学は、頭に浮かべうる最も突飛なメタファー (隠喩)からなると指摘し、美的にも知的にも、そのメタファーの成功の程度によって判断されねばならないものだと唱えた。(ノーバート・ウィーナー『人間機械論』第二版)
ところで、以下の柄谷行人の議論は、現在からみてどうなのだろう? つまり誤っているところがあるのだろうか。巷間には柄谷のゲーデル解釈を嘲弄する声がないではないが、何を嘲弄しているのか、わたくしの「非科学的な」頭ではいまだ理解できない。
ヒルベルトの「形式主義」の新しさは、一言でいえば、数学は「正しく」さえあれば「真」でなくてもよいという立場をとったところにある。「正しさ」とは、無矛盾的〔コンシステンシー〕である。彼が主張するのは、形式体系がコンシステントであることが証明できれば、それが真であろうとなかろうと数学として認め、それ以上の根拠づけをやめようということである。それは、数学に真理性を、すなわち数学が実在・事実にもとづくことを要求する「直観主義」に対立するものである。「直観主義」は、数学は数学的直観という人間的事実によってつくられるものであって。それは論理に依存するものではなく、逆に論理の方が数学によって保証されるのだという。また、彼らは排中律――たとえばある命題は真であるか、真ではないかのいずれかであるーーを否定する。
以上は現代数学の常識にすぎないが、門外漢を驚かすのは、これらの議論があまりに“文学的”だということだ。いずれにせよ、われわれが関心をもつのは、ヒルベルトの「形式主義」である。二十世紀において最も劇的な事件の一つは、ヒルベルトの形式主義が完成したと思われたまさにその時点で、それに対する致命的な批判がある青年によって届けられたことだといってよいかもしれない。それがゲーデルの「不完全性の定理」(1931年)である。
結論を先にいうと、ゲーデルの定理は、どんな形式的体系も、それが無矛盾的〔コンシツテント〕であるかぎり、不完全である、ということだ。彼の証明は、形式体系に、その体系の公理と合わない、したがってそれについて正しいか誤まりかをいえない(決定不可能な)規定が見出されtれしまうということを示す。不完全性の定理は、また、いいかえれば、ある形式体系がコンシステントであるとしても、その証明はその体系のなかでは得られないこと、それ以上の強い理論を必要とすることを意味している。こうして、純粋数学の完全な演繹体系は一般的に存在しないことが証明されてしまったのである。この結果、非常に単純化していえば、非ユークリッド幾何学がユークリッドの公理とはべつの公理を選択することによって成立するように、公理の選択次第でどんな数学も可能であり、そのことを原理的に否定することはできないということになる。(柄谷行人『隠喩としての建築』pp.45-46)
…………
柄谷は「形式化」の極限において体系がパラドックスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を不完全性定理にちなんで「ゲーデル問題」と名づけてい る。かつて『隠喩としての建築』を読んだ時、私はその着眼の卓抜さと鮮かなレトリックには感嘆したものの、「専門学者」としての見地から、彼のゲーデル理解とその敷衍の仕方には一種の「あやうさ」を感じざるをえなかった。というより、その「あやうさ」が後にエピゴーネンたちによって増幅され、「ゲーデル問題」が過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし始めたことに危惧の念を覚えたのである。柄谷の問題提起の切実さに比して、一般に流布した「不完全性定理」の解釈はいかにも厳密さを欠き、寸足らずの安手の衣服をまとわされているように見えた。しかし、柄谷が抱え込まざるをえなかった困 難、あるいは彼がそのような〈問題〉に逢着した必然性は、私なりによく理解できたつもりである。(野家啓一「柄谷行人の批評と哲学」(『国文学』1989年1月号))
※参照:ゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ
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ここで記したラカンの立場とは、例外の論理/非全体(非一貫性)の論理(男性の論理/女性の論理)の後者にかかわるが、柄谷行人は次の二項の後者に依拠していると思われる。
・カントの力学的アンチノミー /数学的アンチノミー(否定判断/無限判断)、
・ヘーゲルの規定的反射 bestimmenden Reflexion/反射的規定 reflexive Bestimmung、
・マルクスの唯物論的弁証法 materialistische Dialektik/弁証法的唯物論 dialektischen Materialismus
ウィトゲンシュタインの家族的類似性Familienähnlichkeitにもかかわる(参照)。
ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。
思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。
すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。
逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)