反復の恋が実は唯一の幸せな恋である。それは想起の恋と同じように期待の不安定がない。発見の不安にさせる冒険の危険さもない。しかしまた想起の悲哀もない。それは瞬間の至福な確実さを持つ。 (……) 期待は両手から逃げ去っていく愛らしい乙女である。想起は目下のところそれではなにもできない美しい老婦人である。反復は決してうんざりすることのない愛しい女房である。 というのも人はただ新しいものにだけうんざりするから。 古いものには人は決してうんざりしない。そして古いものを自らの目の前に持つとき、人 は幸せになる。反復がなにか新しいものであるなどと思い違いをしないものだけが正しく幸せになるのである。 (キルケゴール『反復』ーー小野,雄介「キルケゴール哲学における反復の問題」PDF)
ドゥルーズやラカン派、日本では柄谷行人によってーーわたくしが知りうる限りだがーーしばしば言及されることの多いキルケゴールの『反復』の核心的な文のひとつである(キルケゴールなど読んだことはなく今後も(おそらく)読みはしないだろうが、上の文をネット上から拾うことができたので今ここに貼り付けている)。
ただし、《反復は決してうんざりすることのない愛しい女房である》とされる「決してうんざりすることのない愛しい妻」などいるのかどうかはよく知らない。わたくしはどちらかといえば、哲学者より小説家や詩人のほうを信用するキライがある・・・
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
もうすこし格調高くいえば、--わたくしは野坂昭如の上の文は充分に「格調高い」と思っているが通念上としてのよりいっそうの格調高さを狙えばーー次の通り。
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)
若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」)
得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。(永井荷風『歓楽』)
すこし格調のレベルを落とせばーーシツレイ、愛すべきジジェクよ!--次のようになる。
ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)
ここでは「厄介な」精神分析など持ち出さなくても、こう引用しておけばすむのかもしれない。
どんなに好きなものも
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな
ーーMy Favorite Things 谷川俊太郎
で、何の話だったか・・・。冒頭の文では、キルケゴールの言いたいことがわたくしには半分くらいしかわからない。だが次の文を読むとよくわかる(気がする)。
反復は現代哲学の中できわめて重要な役割を演じるところがあるだろう。というのも、反復 Wiederholung はギリシア人たちのもとで想起 Erinnerung であったものに代わる決定的な表現であるから。彼らが「すべての認識は想起することである」と教えたのと同じよ うに、現代哲学は「全人生は反復である」と教える。 (……)反復と想起は同じ運動であるが、ただし方向が逆である。というのも人が想起するものは在ったものであり、後ろへ 反復される。それに反し、ほんとうの反復は物事を前へと想起する。 (キルケゴール『反復』ーー登場人物 コンスタンティン・コンスタンティウスの発言)
キルケゴールは別に《思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである》と言っているそうだが(参照)、ようは想起は後ろ向きであり、反復は前向きだということだろう。
とすれば《想起は目下のところそれではなにもできない美しい老婦人/反復は決してうんざりすることのない愛しい女房》の意味合いが分かってくる。われわれは「前向き」でなくてはならない。そうすれば対象aの魅力が古女房からも復活するかもしれない。
結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非理想化する。だがかならずしも非崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)
こういった文脈から、高橋悠治のとても美しい文章を味読することができる。
ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、 過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』1978 )
思想的な次元がお好きな方のために、柄谷行人のーーこれは美しさにはやや劣る気がするば、よく咀嚼すれば味わい深い文だともいえる、ーー文章をも掲げておこう。
同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(柄谷行人『探求Ⅱ』)
さて、最後に「愛すべきジジェク」の文をを再度掲げておく。
……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、反復するから抑圧する On ne répète pas parce qu'on refoule, mais on refoule parce qu'on répète 》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
.注)この《ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、反復するから抑圧する》の帰結は、反復と想起の関係の倒置を伴うことになる。フロイトの有名なモットー「われわれは、想い出すことを出来ないことに反復を強いられる。」――この文は、次のように反転させるべきだ。すなわち、「われわれは、反復できないことに取り憑かれ記憶することを強いられる」。過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である。
ーードゥルーズは別に、《私は反復するから忘れる j'oublie parce que je répète 》ともしている。
…………
※付記
ただし本当にジジェクやドゥルーズのいうようなのかどうかは、わたくしは瞭然としていない。心的外傷後ストレス障害の「反復強迫」をそのときどう位置づけたらよいのか。つまり、ジジェクのいう《過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である》をどう捉えたらよいのか。前向きの「反復」がありえず、過去の「想起」をどうしてもしてしまうから、PTSD(心的外傷後ストレス障害)なのではないか。そこがよくわからない。
どの「反復」も、絶え間ず換喩的に動く欲望のイマジナリーな弁証法内部で、新しい何かを含んでいる。対照的に、「反復強迫」は--フロイトによって外傷神経症をめぐって叙述されたものだがーー、トラウマ的リアルから生じる何かを象徴化する試みのなかでしっかりと固定化されている。(Paul Verhaeghe、PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、PDF)
…心的外傷後ストレス障害の長期にわたる影響、それは解離、能動-受動の反転を伴う反復強迫、根本的不信である。基本的に、これらの患者の生存戦略は常に同一である。すなわち、コントロールされる代りに、コントロールしたいことである。
解離はもちろん、分割(分裂splitting)、主体の分割と同じものである。とても屡々悪い部分と良い部分への分割である。この観点から、フロイトはまさに意識と無意識とのあいだの対立を見出した。いわゆるトラウマ患者の解離障害とは、意識と無意識とのあいだの分裂をおそらく最もよく例示している。それは症状として、状況のコントロールを得ようとする患者の試みである。この試みは、倒錯における否定(否認)というフロイトの考え方と極めて顕著に類似している。否定と解離の両事例において、二つの異なった世界が創造され、各々が独立して機能している。(同ヴェルハーゲ、PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、ーー心の間歇・解離・倒錯)