2016年10月21日金曜日

心の間歇・解離・倒錯

心の間歇と心の傷」から引き続く。

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◆中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年より


【プルースト的精神医学】
もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)

先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」…


【科学者の子としてのプルースト】 
彼(プルースト)は科学者ではもちろん決してないけれども、科学者の子であり、科学者の世界、少なくとも科学者の出入りする社交界を熟知しており、彼自身、植物採集家の眼を以て人間を見ている。たとえば人物を蘭やマルハナバチに巧みにたとえている。(……)

プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。フロイトの「抑圧」に対して「解離」を重視するのがピエール・ジャネにはじまる十九世紀フランス精神医学である。(……)


【心の間歇と解離】
「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。では「心の間歇」は「解離」の一種なのか。(……)

現在の精神医学は、解離と呼ばれているものを病的解離と正常解離とにわけている。

病的解離とは多重人格障害 personnalité multiple、遁走 fugue(外からは意識的・合目的に見え、実際、遠方まで車を運転していったりするが当人は記憶していないもの)、種々の健忘 amnésie、夢遊病 somnambulisme、フラッシュバック(白昼に外傷的体験が意図せずして意識に侵入し一時これを占拠するもの)retour en arrière,flash-back、離人 dépersonalisation(自己、下界、身体あるいはそおすべての自己所属感が喪失する)などであり、催眠 hypnotisme はその人工的誘導である。覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する。元来、フラッシュバックという用語はこちらのほうを指していた。なお、実名で『失われた時を求めて』に登場する精神科医コタールの名を冠するコタール症候群 syndrome de Cotard とは自己、自己身体、外界のすべての存在を否定し、「ない」というもので、解離の極端例とも考えられる。(……)

病的解離の代表的なものとは、「心の間歇」は、言葉でいい表せば同じになることでも内実は大いに異なる。たとえば、同じ誘発因子を以て突然始まるといっても、臨床的に問題になる解離は、石段の凹みを踏んだ“深部感覚”、マドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ口腔感覚といったものではない。引き金になるのは、性的被害を受けた現場に似ている場所や、戦場を思わせる火災である。さらに、現れる状態は誘発因子との関連が深く、「再体験」といわれる。また、同じく例外的状態といっても、侵入される苦痛の程度が格段に違う。それに、自己意識が消失したり、合目的的ではあるが自動運動に置換されたり、私が私であるという基本的条件が震撼させられる点もちがう。意識内容の一時的支配といっても程度の差は著しい。過去との記憶の関連があるといっても、病的解離においては不動静止画像が多く、時間が停止する。運動は混乱の極みに達し、しばしばパニックを起こす。「心の間歇」では動きがあり、感覚的に楽しささえある(精神医学的には「自我親和的」といってよかろう)。(……)


【生のさわやかな味わいとしての解離】
もっとも、私は「心の間歇」であれ何であれ、プルーストの書き残したものを精神医学という「プロクルステスの寝台」に押し込めてよしとするつもりはない。

むしろ、夢遊病者なり、遁走なり、多重人格といった精神医学の不動の蠟人形をその館から開放するためにプルーストの力を借りたいぐらいである。(……)

敢えて私自身の言葉を用いれば、マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」一九九〇年、『徴候・記憶・外傷』みすず書房、二〇〇四年版所収)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが( …)、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。( …)それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveur をももたらしうるものである。(……)


【解離と解離の解除】
これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。

われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。

解離は必ずしも破壊者ではない。社会生活に不都合を生むにせよ、むしろ保護的なものである。侵入体験を消失する薬物を、効果を認めながら、断乎拒んだ家族内暴力被害患者を思い合わせる。おそらく、身体の傷と同じく、心の傷も治療はしかるべき歩調で、そして患者主体で進行しなければならないのだろう。


【プルーストの喪の作業】
プルーストもサナトリウムの治療を拒み、『失われた時を求めて』を書くことを選んだ。それは母にささげる彼の「喪の作業」であったかもしれない。

ここでいったん別の論から挿差する。

《戦争について書こうとする作業は、私の一種の喪の作業であることに最近気づいた。》( 中井久夫「戦争と平和 ある観察」2005)

一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴うことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリサーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者であることを秘匿する。

PTSDの発見困難はむろん診療者の側の問題でもある。膵臓疾患の診断の第一は「膵臓が存在することを忘れていないこと」である。それほど膵臓は忘れられやすい臓器だということだが心的外傷でも同じである。多くの外来患者はフラッシュバックなど侵入症状を初めとする外傷関連症状の存否をそもそも聞かれていない。それに怠慢ばかりでなく、心的外傷には、土足で踏み込むことへの治療者側の躊躇も、自己の心的外傷の否認もあって、しばしば外傷関与の可能性を治療者の視野外に置く。

しかし患者側の問題は大きい。それはまず恥と罪の意識である。またそれを内面の秘密として持ちこたえようとする誇りの意識である。さらに内面の秘密を土足で入り込まれたくない防衛感覚である。たとえば、不運に対する対処法として、すでに自然に喪の作業が内面で行われつつあり、その過程自体は意識していなくても、それを外部から乱されたくないという感覚があって、「放っておいてほしい」「そっとしておいてほしい」という表現をとる。

天災においてさえ、恥の意識はありうる。「他の人たちは我慢しているのに」「生きのびただけでも感謝するべきなのに」「私の弱さをさらけだしたくない」など。「死んだ人(家をなくした人)に申し訳ない」という生存者罪悪感もある。たとえば周囲が皆倒壊している中で一軒だけ倒壊しなかった家の人の持つ罪の意識である。性的被害や児童虐待においては、なおさらのことである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」)

 プルースト小論に戻る。


【心の間歇と心の傷】
「心の間歇」は心の傷になるか? 現在のPTSD定義には該当しない。定義は死の危険と深く結びついているが、それはヴェトナム復員兵への補償と対応しているからだけのことだ。

おそらく、心の傷にもさまざまなあり方があるのだろう。細かな無数の傷がすりガラスのようになっている場合もあるだろうし、目にみえないほどの傷が生涯うずくことがあり、それがその人の生の決定因子となることもあるだろう。たとえば、おやすみなさいのキスを母親に忘れられて父母が外出をする気配を感受する子どもの傷である。スティーヴンソンも『子どものための詩』で、高緯度地帯ゆえに明るいうちいベッドに追いやられる子どもをうたっていはしないか。ふつう、それは精神医学的介入を求められるたぐいのものではない。だが、精神科医が自戒すべきは、精神医学的介入を必要としない事態の軽視である。そういう傷のない子どもがあろうか。また、ある種の子どもの成長に不可欠なものかもしれない。そして歴史家フィリップ・アリエスは「大人による子どもの発見」を語ったが、子どもによる大人の発見もある。たとえば、エランベルジェの童話『いろいろずきん』。大人を発見することを介して子どもは自分を発見する。大人の行動を乏しい経験と語彙とによって論理的に考えて考えて考えているのが子どもだと小児精神科医デニス・M・ドノヴァンとデボラ・マッキンタイアはいう。「あどけない考え」だとして大人が微笑むものが子どもの必死の思考でありうる。成人になってからのプルーストの言動にもそれはありはしないか。相手を傷つけまりとする配慮と、相手の傷つきによって自分が傷つくことを恐れて先回りしようとする気遣いとは時に法外なチップとなり、丁寧すぎる挨拶となる。


【プルーストの外傷的な記憶】
「私なら失われた時など求めはしない。そういうものはむしろ退けるくらいだ」とプルースト追悼の際にポール・ヴァレリーは書いた。彼が「知性の巨人」で済まされなくなった今、彼はむしろ過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueではなかったかと思われる。「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである。サマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」といって九十歳になんなんとして自殺した。忘却を人は恐れるが忘却できないことはいっそう苛酷である。プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、もっぱら月光のもとでのみ外出し、ひたすら執筆に没入した。記述を読むと鬼気がせまってくる。

私には、『失われた時を求めて』の話者の記憶は、抑圧を解除されたフロイト的記憶よりも外傷的なジャネの記憶の色を帯びているように思える。プルーストの心の傷の中には、母親に暴言を吐き、ひょっとすると暴力を振るってしまったことによる傷があっても不思議ではないと私は思う(『ジャン・サントゥイユ』あるいはペインターの『プルースト伝』参照)。私は初めて『失われた時を求めて』を読んだ時、作家は家庭内暴力を経ている人ではないかと思った)。もっとも、『失われた時を求めて』は贖罪の書では決してない。むしろ、世界を論理的に言葉で解析しつくそうとするドノヴァンとマッキンタイアのいう子どもの努力のほうに近いだろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)

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上に引用した文のなかに、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」(サリヴァン)の定義が引用されているが、中井久夫のサリヴァン、ジャネ、エランベルジュに依拠しつつのこの論は、フロイト・ラカン派ならどう見るのか。

…心的外傷後ストレス障害の長期にわたる影響、それは解離、能動-受動の反転を伴う反復強迫、根本的不信である。基本的に、これらの患者の生存戦略は常に同一である。すなわち、コントロールされる代りに、コントロールしたいことである。

解離はもちろん、分割(分裂splitting)、主体の分割と同じものである。とても屡々悪い部分と良い部分への分割である。この観点から、フロイトはまさに意識と無意識とのあいだの対立を見出した。いわゆるトラウマ患者の解離障害とは、意識と無意識とのあいだの分裂をおそらく最もよく例示している。それは症状として、状況のコントロールを得ようとする患者の試みである。この試みは、倒錯における否定(否認)というフロイトの考え方と極めて顕著に類似している。否定と解離の両事例において、二つの異なった世界が創造され、各々が独立して機能している。(Paul Verhaeghe、PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、PDF

この時点ーーこの論はたぶん2002年の論だと思うが不詳ーーにおいてのヴェルハーゲの仮説は、《もし我々が倒錯構造をもった患者を見出したいなら、いわゆる心的外傷後ストレス障害、とくにその慢性的形式のDSMのカテゴリーのなかに探し求めるなければならない》というものである。

ヴェルハーゲの上の文に、「能動-受動の反転」、「コントロールされる代りに、コントロールしたいこと」とある。これは中井久夫の次の叙述と同じ意味合いであるだろう。

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.106ーートラウマ患者の「暴力」性

 そして「倒錯」めぐるヴェルハーゲの見解だが、これも中井久夫が記しているように、《精神科医が自戒すべきは、精神医学的介入を必要としない事態の軽視》である。倒錯者は、精神医学的介入のすくない病理者ーー犯罪行為をおかさなければーーであるだろう。その意味でも、上のヴェルハーゲの見解は傾聴に値する。

もっとも中井久夫にとってもヴェルハーゲにとっても、核心は現勢神経症概念であり、最終的には両者ともその概念に収斂するはずである(参照:ホロコースト生存者の子供たちのPTSD)。

フロイトの「現勢神経症」概念から導きだされたヴェルハーゲの「現勢病理 actualpathology」とは、臨床的スペクトラムーーラカンの三区分(精神病・倒錯・神経症)ーーを渡り動くものであり、分裂病や倒錯は現勢病理の最も典型的な(濃いスペクトラムポジションの)病理である(一般的にいわれる「神経症」がスペクトラムの最も薄い端に位置するのに比較して)。

フロイト自身、精神病ーーパラフレニア(分裂病)、パラノイア等ーーを含めて現勢神経症を定義している。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)

ヴェルハーゲの記述なら次の通り。

フロイトの論拠では、「精神病理」的発達は、どの発達の出発点としての「現勢病理」の核の上への標準的継ぎ足しである。これらの二つは、単一の連続体の二つの両極端として考えられなければならない。どの「精神病理」も「現勢病理」の核を含んでおり、どの「現勢病理」も潜在的に「精神病理」へと進展する。(Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(PDF)

とはいえ、中井久夫の「解離」とヴェルハーゲの「倒錯」をめぐる叙述はとても興味深い。一概に現勢神経症と括ってしまっては見えてこないものが見えてくる。

たとえば、プルースト、ロラン・バルト、あるいは数多くの詩人たちーー、すなわち「心の間歇」「無意志的記憶」に襲われやすい人間は、倒錯的気質をもったタイプではなかっただろうか、という問いが浮かんでくる。

もちろん、別の原因での無意志的記憶の現われもあるだろう。日本だけに限っても戦前の作家たちのヒロポン大量使用などに思いを馳せることができる、中井久夫の文を再掲するならば、《覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する。元来、フラッシュバックという用語はこちらのほうを指していた》。

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いずれにせよ、外傷研究をするなかでフロイト概念の「現勢神経症」の重要性を強調している臨床家はーーわたくしの知る範囲でだがーー、PTSD研究者アラン・ヤング、阪神大震災被災後の中井久夫、フロイト・ラカン派のポール・ヴェルハーゲである。

ヴェルハーゲは、通常の神経症(精神神経症)における「反復」と外傷神経症(現実神経症)における「反復強迫」とのあいだの区別の簡明な説明をしている。

どの「反復」も、絶え間ず換喩的に動く欲望のイマジナリーな弁証法内部で、新しい何かを含んでいる。対照的に、「反復強迫」は--フロイトによって外傷神経症をめぐって叙述されたものだがーー、トラウマ的リアルから生じる何かを象徴化する試みのなかでしっかりと固定化されている。(Paul Verhaeghe、PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、PDF

ラカンのいう《書かれぬことをやめぬもの [ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]》(Lacan, S.20)に囚われているのが、どちらのタイプであるかは一読瞭然だろう。

これはラカンのオートマンとテュケーーーautomaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη)ーーの区別でもあるが、このところ何度もくり返しているのでここではこれ以上触れないでおく(参照:偶然/遇発性(Chance/Contingency))。