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2018年6月28日木曜日

身を慎んで目を覚ましていなさい

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)


(ゴダール、『(複数の)映画史』1A)


ああ、《すべての天使は恐ろしい Ein jeder Engel ist schrecklich》(リルケ、ドゥイノの悲歌)



(ゴダール、『(複数の)映画史』3B)

海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)

ああ、すべての女神は恐ろしい

僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)

ああ、子宮回帰は恐ろしい





誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、…この母胎内 Mutterleib への回帰…(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

《ラカンの母は、quaerens quem devoret(『聖ペテロの手紙』lettres 1, 5, 8)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐 crocodileとして、口を開いた主体 sujet à la gueule ouverte.として提示した。》(ジャック=アラン・ミレール 、La logique de la cure、1993)

母とは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。…あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


ああ、《世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし》(太田南畝)

かつて「ジンプリチシムス Simplicissimus」(ウィーンの風刺新聞)に載った、女についての皮肉な見解がある。一方の男が、女性の欠点と厄介な性質 die Schwächen und Schwierigkeiten des schöneren Geschlechts について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ Die Frau ist aber doch das Beste, was wir in der Art haben』。(フロイト 『素人分析の問題』1927年 後書)





行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

《世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい》(太田南畝)

自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道 Vom Wege des Schaffenden 」)




生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる女への愛 Liebe zu einem Weibe にほかならない・・・(『ニーチェ対ワーグナー』エピローグ、1888年)
真理への意志 Wille zur Wahrheit は、いまだ我々を誘惑している。…我々は真理を欲するという。だがむしろ、なぜ非真理 Unwahrheit を欲しないのか? なぜ不確実 Ungewissheit を欲しないのか? なぜ無知 Unwissenheit さえ欲しないのか?(ニーチェ『善悪の彼岸』第1番、1886年)

《真理は女である。真理は常に、女のように非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute》(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理は女である die wahrheit ein weib 、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)