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2018年6月27日水曜日

御牝孔・御曼孔をめぐって

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(グザビエ・ビシャ Xavier Bichat ーー、フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳より孫引き)

ラカンはセミネール17にて、このビシャの《生とは死に抵抗しつづける作用(の集合)である La vie est l’ensemble des fonctions qui résistent à la mort》を引用した直後、こう言っている。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ラカンにとって、最晩年までこの考え方の変りはない。

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

何度も繰り返したが(たとえば参照:「死とは享楽のこと」)、三年前にはこう言っている。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)

同じ時期、《われわれの享楽の彷徨い égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534) とも言っている。

ラカンにとって《すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort》(ラカン、E848、1966年)である。

したがって、「享楽の漂流」とは、「死の漂流」(漂流とは「逸脱」とも訳せる)のことである。

日本語の御牝孔(オメコ)、あるいは御曼孔(オマンコ)という語をひとはバカにしてはならない。

牝の孔とは老子の玄牝乃門のことである。

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子『道徳経』第六章)

ハイデガーはこの老子の 『道徳経』を自ら翻訳したのち、杣径概念を提出している(参照:「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」)、あれも実際は、京言葉の「おそそ」にかかわる。オソソは適当な漢字の当て字が思いつかないが、 御禹疏とすれば、《とおる・ふさがった所を、わけ離してとおす》である・・・

杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。

どの杣径も離れた別の経路を走る、しかし同じ森の中に消えてしまう。 しばしば或る杣径が他の杣径と似ているように見える。けれども似ているように見えるだけである。

これらの径の心得があるのは、杣人たちであり森番たちである。杣径を辿り径に迷うとはどういうことであるのか、熟知しているのは彼らなのである。 (ハイデガー『杣径』)

ここで人は、ゴダールにおいて、1998年の『(複数の)映画史』以降、しばらく途絶えていた杣が、2014年、84才の作品になってふんだんにあることを想起せねばならない(参照:ゴダールによる世界の起源的美)。






牝の孔、つまり玄牝乃門に戻って邦訳を掲げれば、

谷神は不死。之を玄牝(ゲンピン)と謂う。
玄牝の門、是を天地の根と謂う。
緜緜(メンメン)として存する如く、之を用いて不動(不死身)。


そして曼孔の曼とは、マンダラ、すなわち生々流転に関わることを表す。まさに享楽の漂流である。

われわれは、《誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎内 Mutterleib への回帰》運動、子宮回帰運動があるのである(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)。すなわち御曼孔の漂流、御曼孔のまわりの循環運動である。

燈火の周圍にむらがる蛾のやうに
ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ
そが見えざる實在の本質に觸れようとして
むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる
私はあはれな空想兒
かなしい蛾蟲の運命である。

ーー萩原朔太郎「青猫」序文

どの「標準的な」男も避けがたく女に向って駆り立てられる。焼き焦がす燈火にむれる蛾のように like a moth to the scorching flame of the candle。男は欲動に駆り立てられるのである。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)

オンナの場合の、 御曼孔のまわりの彷徨とは自傷行為やパニック発作等である。拒食症も同じく。

拒食症 anorexie mentaleとは、食べない ne mange pas のではない。そうではなく、無を食べる manger rien。(ラカン、S4, 22 Mai 1957)

無の核には「イマージュの背後の無」でみたように、− φ (去勢、母の去勢)がある。


もう一度、ビシャの《生とは死に抵抗しつづける作用の集合である La vie est l’ensemble des fonctions qui résistent à la mort》の集合という語に光を与えれば、

女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

女というものは御曼孔の集合である。ここで人は性的な意味のみを考えてはけっしてならない。むしろ谷川俊太郎の絶唱「なんでもおまんこ」を想起しなければならない。

なんでもおまんこ 谷川俊太郎

なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ


《おれ死にてえのかなあ》、--ここに精神分析のひとつの核心があるのである。

(少なくともある時期までの)フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼方には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ1988, Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ーー享楽という原マゾヒズム


御曼孔の集合とは神の集合と捉えてもよい。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

なにはともあれ人は、オトコもオンナも、御曼孔と融合したいのである。人は生誕とともにあの原初のエロス的融合から分離してしまったのだから。

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの別離を意味し、母の去勢(子供すなわち陰茎の等式により)に比較できるかもしれない。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

人はいまだ「去勢」の意味を取り違えている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていない Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではない。(ラカン、テレヴィジョン、1973)

母の去勢において、人は、御曼孔と分離してしまったのだから、ふたたび融合を求めるのである、生きている存在には、不可能な融合を。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エロスとは二つが一つになることだ。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux(ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーー究極の融合、究極の享楽が死だというのもこの意味である(参照:「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである」)。


たとえば、大江健三郎にとって「魂のことをする」とは、《「中心の空洞」に向けて祈りを集中》ことである(『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)。「中心の空洞」に向けて祈りを集中こととは、まさに御曼孔に向けて祈りを集中することにほかならぬ。これこそ「魂のことをする」である。

あるいは人はまた、古井由吉のエロスをめぐる発言を想起しなければならない。

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

さらにはドゥルーズの《強制された運動の機械》も、その内実は御曼孔の引力にかかわる。すなわち原抑圧の穴(ブラックホール)の引力である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

なんども繰返し引用したので、ここでは列挙するのみにしておくが、巷間のドゥルーズ研究者はいまだこの核心においてゼロに等しい。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として、あるいは循環のエレメント élément d'un cycle として生きる。それに対立する他のエレメントは、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
三種類の機械⋯⋯それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)
・エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。

・⋯⋯「暗き先触れ précurseur sombre」の活動のおかげで、システムのうちに生起するもの、つまり共鳴し合う諸々の系列のあいだで生起するものが、〈聖体顕現(エピファニー épiphanie)〉と呼ばれる。そして宇宙的な cosmique 拡がりは、ある種の強制された運動が大きく増幅されること l'amplitude d'un mouvement forcé と一体をなしている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

こられがラカンの云う、《症状は現実界について書かれることを止めぬもの》の意味である。

書かれないことを止める cesse de ne pas s'écrire から書かれることを止めない ne cesse pas de s'écrireへの否定のneの移動、偶然から必然への移動、そこに宙づりになった時間がやってくる。そしてすべての愛はそこに繋ぎ止められる。(ラカン、S20、1973)
症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

そして症状とは女のことである。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

ラカンの若い友人だったソレルスははやい時期からこのことを知っていた。

世界は女たちのものである。
つまりは死に属している。
(⋯⋯)

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』鈴木創武士訳、邦訳1993年 原著1983年)

ここでさらに、リルケを引用してもよい。

昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(リルケ『マルテの手記』)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ『ドウイノの悲歌』)

中井久夫=安永浩はこれらを図式化している。




安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

この図式は、まさに死のさまよい、享楽のさまよいの図である。