人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていくことを”魂のこと”をするというふうにいいたいと思います。神なしでも”魂のこと”をする場所を作る”新しい人”の決意で小説は閉じられるわけですが、僕にとっては”神なしでも”の部分が重要です。僕はずっと”信仰を持たない者の祈り”ということをいってきましたが、それは信仰を持つ可能性があるという意味を含んでいたわけですね。『宙返り』を書いて、そういう気持ちから切り離されて、本当に自由になった気がします。(大江健三郎、ダヴィンチ)
みなさん、魂のことをしましょう!
これまで幾たびも話したことだが、魂のことを始めなければならないと、子供の頃から私は考えていた。ハイ・スクールの生徒になると、それにかさねて折りかえし点ということを思うことになった。いったん魂のことを始めてしまえば、生きるための金銭を稼ぐことはできないのだから、その折りかえし点に到るまでに、死ぬまでの生活費を貯えておかなければ…… そのように子供じみたことを、切実に思い続けたものだ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部、P.156)
表現の仕方は別にして、これに近いことを一度も考えたことのない人とはオトモダチになれない。彼らとはーーシツレイナガラーー、精神の階級が異なるのである。
人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに」)
人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない(プルースト「ゲルマントのほう」)
もっとも、《魂のことを始めなければならない》というときの「魂」とは何か、が難問ではある。
標準的には次のような問いが生まれるはずである。
魂のことを追いかけて行くと、最終的には神に行きあたるわけでしょう? (大江健三郎、燃え上がる緑の木、第二部)
だが「精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。⋯⋯ Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »」(ラカン、S23、16 Mars 1976)
とすれば、「魂のことをする」とは「女のことをする」なのだろうか?
女 La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975ーー「誰もがトラウマ化されている」)
――Kさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね? たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。ギー兄さんの、なかになにもないかも知れない繭というのも、「中心の空洞」ということで、いかにも日本人的な信仰のかたちなんだろうか?
――「中心の空洞」ということを考えるとして、それが本当に日本人固有なものかねえ。量子力学にしてからがその直喩に立っているんじゃないの? それならばヨーロッパにあり、アメリカにあり、またアジアの人間も共有する、というもので……
ともかく私は繭の「中心の空洞」に集中するとして、もっと通りの良い言葉でいえば、それに向けて祈るとして、いつまでもそこからなにも現れないままで、決して不都合だとは考えないと思うよ。「中心の空洞」に向けて祈りを集中しているとして、人間の側の営為として、いまの私にはどんな不協和音も兆してこないよ。
――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈るんだろう? とあきらかに今度はゲームのようにでなく、ザッカリー・K・高安は尋ねた。
――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう? ……まあ、そのように感じて、祈る者や祈らぬ者や、お互いをキョロキョロ見交わすのが、私たちの集会の出発点かも知れないなあ。
――僕はギー兄さんの考え方を、無神論のカテゴリーに、あるいは人間的なニヒリズムに、つまり若いころのKさんみたいな、実存主義者のものに分類するけれども、とザッカリー・K・高安はいった。しかし、そういう考え方の連中がなお教会を建てるということに、僕は関心を持たないではいられないね。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)
「中心の空洞」に向けて祈る、--これが「魂のことをする」なのだろうか。
とても難問である。「中心の空洞のことをする」とは、やはり「女のことをする」であるように思えてくるが、もうすこし「熟慮」してみなければならない。
標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。
しかしながら、異なった読み方によれば、不在は現前 presence に先立つ。すなわち、男は、ファルスを持った女である。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を塞ぐ詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。
《我々は、「無」と本質的な関係性を享受する主体を、女と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女である主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)
ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「斜線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。これが説明するのは、女と見せかけ semblant (仮装としての女性性)とのあいだの独自の関係性である。見せかけとは「空虚」、「無」を隠蔽する外観である。無とは、ヘーゲル的に言えば、隠蔽するものは何もないという事実である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)
主体性の空虚$は、「語りうるもの」の彼岸にある「語りえぬもの」ではない。そうではなく、「語りうるもの」に固有の「語りえぬぬもの」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
わたくしはラカンやラカン注釈者たちをいくらか読むほうなので、どうしても依拠がラカン派に傾きがちになる。そしてラカン派的には、「魂のことをする」とは「主体性のことをする」でありうるかもしれない。
だがラカン派ばかりだけではなく、別の依拠も必要であるに相違ない。
たとえば、ニーチェ、プルースト。--ここではドゥルーズの簡潔な文を掲げる。
アリアドネは、アニマ、魂である。 Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)
愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
この二つの簡潔な文からは、「魂のことをする」とは、「アリアドネのことをする」「愛のことをする」となるはずである。
ーーいやいや、「熟慮」が足りない。もうすこし考えなければならない。
わたくし個人の経験のみからいえば、《魂のことを始めなければならない》とある時期に発心したのではあるが、結局は、「女のことをする」あるいは「アリアドネのことをする」ほうに傾いてしまったという「忸怩たる」思いがあったのである・・・
「アリアドネのことをする」とは、ようは「迷宮のことをする」である。
迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)
人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…(Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf)
さらにいえば「魂のことをする」とは、ひょっとして「錯乱する」ということではなかろうか? より穏やかにいえば、「不意打ちをくらう」「世界の論理のひびわれにおそわれる」では?
愛する者 L'amoureux は錯乱 délire している(彼は「価値観を転倒せしめる」のだ)。ただし、その錯乱はおろかしい bête ものである。愛する者ほどおろかしい者があるだろうか。
…(おろかしさ、それは不意打ちを喰うということである。愛する者はたえず不意打ちを喰っている。彼には、変形させたり、検討を加えたり、保護したりしている余裕がない。おそらくは彼にも自分のおろかしさがわかっている。しかし、彼はそれを非難することをしない。あるいはまた、彼のおろかしさは、裂け目clivageというか倒錯というか、そのような働き方をする。彼はいう、いかにもおろかしいことだ、でもそれは真実なのだ。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)
愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して。(マルグリット・デュラス「死の病い」 )’
これは(わたくしの熟慮の足りない現在の頭では)、ファルス秩序の覆いーー《心的被覆 psychischen Umkleidungen》(フロイト、1924)、《 l'enveloppe formelle du symptôme 症状の形式的封筒 》(ラカン、E66、1966)ーーを取り払う、あるいは刺激保護膜を取り払うことなのであるが、今はあまりいい加減なことはいいたくない。
外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮を、われわれは外傷性traumatischeのものと呼ぶ。
外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)
刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
ようするに、「面の皮を薄く」することであり、標準的な生活を送っている方々には、あまりおすすめできない、という結論にいたる。面の皮を厚くしたままの「美しき魂」、あるいいは「善人」に徹することをお勧めする。
完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども。(ニーチェ『この人を見よ』)
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
すなわち、精神の中流階級の方々は、「魂のことをする」などとは決して思わないでよろしい!
学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)
もちろん精神の中流階級とは、学者だけではない。典型的には昨今の「科学精神」たちのことである。
周知の通り、この時世では魂は存在しない n'existe pas。事実、昨今の科学は魂を地に堕としてしまった ça fout l'âme par terre !
あなた方は気づいていないだろうが、私が言いたいのは、科学は魂を全く役立たずにしてしまう ça la rend complètement inutileということだ。(ラカン、S21, 19 Février 1974)
世の中には「不幸にも」精神の貴族階級に生まれてしまった種族が存在するのであり、彼等にまかせておけばよろしい、「魂のことをする」などとは。
大江で始めたのだから、大江で終えよう。
……葬儀に帰られたKさんと総領事が、伊東静雄の『鶯』という詩をめぐって話していられた。それを脇で聞いて、私も読んでみる気になったのです。〈(私の魂)といふことは言へない/しかも(私の魂)は記憶する〉
天上であれ、森の高みであれ、人間世界を越えた所から降りてきたものが、私たちの魂を楽器のように鳴らす。私の魂は記憶する。それが魂による創造だ、ということのようでした。いま思えば、夢についてさらにこれは真実ではないでしょうか?
私の魂が本当に独創的なことを創造しうる、というのではない。しかし私たちを越えた高みから夢が舞いおりて、私の魂を楽器のようにかきならす。その歌を私の魂は記憶する。初めそれは明確な意味とともにあるが、しだいに理解したことは稀薄になってゆく。しかしその影響のなかで、この世界に私たちは生きている…… すべて夢の力はこのように働くのではないでしょうか? ………(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部、P.114)
とはいえ精神の中流階級のみなさん!、《私の魂を楽器のようにかきならす》アリアドネを知らずに何のために生きているノデショウカ? あのアリアドネが《魂の状態の中に刻印される inscrits dans un état d'âme 》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)ことを知らずに?