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2017年9月30日土曜日

あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ

「あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ」とは小林秀雄が大岡昇平にあたえたアドバイスの言葉である。

巷間に流通しているのは、《小林秀雄が「君は魂のことを書け」とアドヴァイスをしたところ、大岡は「いや、事実を書く」と反発した》(魂ではなく事実を書く——大岡昇平の視点)だが、これは下に引用する大岡昇平の文を読むかぎりでは異なる。「事実を書く」などとはどこにも言っていない。「描写する」という表現がなされているだけである。

「事実を書く」であるなら、ニーチェの文を引用して罵倒しようと思ったのだがそうはいかなくなって残念である・・・

現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。(ニーチェ『権力への意志』ーー「遠近法」、あるいは「自然は存在しない」

というわけで(?)、ネット上から拾ったのだが、大岡昇平の「再会」から核心部分を掲げる。

「君、一つ従軍記を書いてくれないかな」 と待望の話になった。「従軍記」には私は思わず吹き出した。私は本物の兵隊として行ったので、 報道班員のように「従軍」したのではない。しかしX先生がそういうのも一理ないこともない。私はてんで戦う気はなかったのであるから、事実上従軍みたいなものである。

「ああ、Bからちょっと聞いた。でもねえ……」 と勿体をつける。

「いやなのかい」

「いやじゃないけどね。戦場の出来事なんて、その場で過ぎてしまうもので、書き留める値打があるかどうかわかんないんだよ。ただ俘虜の生活なら書ける。人間が何処まで堕落出来るかってことが、そうだな、三百枚は書けそうだ。だけど日本が敗けちゃって、国中ががっかりしてる時に、そいつを書くのは可哀そうだな。もっとも今は共産党とかなんとかいってるけれど、そのうちきっと反動が来ると思います。その時書いてもいいですな」

私はただてれているにすぎなかった。それがX 先生に見破られないはずはない。先生は長口舌を振う私の顔を憐むように見ていたが、

「復員者の癖になまいうもんじゃねえ。何でもい い、書きなせえ。書きなせえ。ただ三百枚は長すぎるな。百枚に圧縮しなせえ、他人の事なんか構わねえで、あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ」

「へえ」  

しかしスタンタリヤンを捉えて、描写するなとは余計な忠告というものである。半年後出来上がった百枚の原稿を、先生はほめてくれたが(私の書いたものが、先生にほめられた最初である) 、あんまり描写がないのに、少し驚いたらしい。

「ふむ、こりゃいいもんが出来たが、どうもあんまりフィリピンの緑の感じが出てねえな。八犬伝の雑兵が、清澄山から東京湾を見下ろしてるようじゃねえか。時々ちょっと描写を挿むと効果的なんだ」  

私は内心凱歌を挙げた 。(大岡昇平「再会」)

《スタンタリヤンを捉えて、描写するなとは余計な忠告というもの》とあるように、大岡昇平は「魂のことを書く」より「描写」のほうが肝腎だと考えたということになる。

彼は脚下に二十里四方の土地を見た。ハヤブサであろう、彼の頭上の大岩から飛び立った鳥が、いたって大きな輪を、音もなく、えがいているのがときどき彼の視界に入った。ジュリアンの目は、機械的にこの猛禽のあとを辿っていた。その落ち着いた、しかも力強い動きが、彼の心を打った。彼はあの力をうらやんだ。彼はあの孤立をうらやんだ。それはナポレオンの運命であった。いつの日か、それが彼の運命になるだろうか。(スタンダール『赤と黒』)

他方、小林秀雄の「魂のことを書く」とは何か? それは次の文によく表れている。

歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。母親にとって、 歴史事実とは、 子供の死という出来事が、 幾時、 何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。 かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がな ければ、子供の死という出来事の成り立ちが、ど んなに精しく説明出来たところで、 子供の面影が、 今もなお、眼の前にチラつくというわけには参る まい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ。今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それをよく知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう 。 (小林秀雄「歴史と文学」昭和16年)

《子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供》とは何だろうか。まずは一般的なことではなく単独的なこととしうる。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》(ドゥルーズ『差異と反復』)

単独的なものは「身体の出来事」という風にもたぶん捉えうる。《症状(原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)

このサントーム SINTHOME とも呼ばれる原症状は、原トラウマ(フロイトの原固着)とほぼ等価である(参照)。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳ーー基本的なトラウマの定義)

ここで次のように補っておこう。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

魂としての身体」で記した「マレビトとしての身体」とは、上のフロイト文にある「異物 Fremdkörper」のことである(仏語訳では corps étranger)。

このマレビトとしての身体は、象徴界の非一貫性(非全体pastout)の「内部」に立ち現れる(外立する)ものであり、けっして超越的彼岸にあるものではない。むしろ超越論的なものである。 

・現実界とは形式化の袋小路である Le reel est un impasse de formalization)(ラカン、S20)

・現実界は外立する Le Réel ex-siste(S22)

前回、マレビトとしての身体は、魂としての身体である、としたが、たとえば、こうも引用することができる。

無意識の主体は、身体を通してのみ、魂に触れる。En fait le sujet de l'inconscient ne touche à l'âme que par le corps(ラカン、テレヴィジョン、1973)
魂とは肉体のなかにある何ものかの名にすぎない。 Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「肉体の軽侮者」)

いずれにせよ、このように考えると、「魂は描写(形式化)の袋小路に現れるもの」とすることができる。つまりこの観点をとると、「魂のことを書くこと」と「描写すること」とは相反するものではまったくない。ただしその描写するものは、おそらく、向こうから押し寄せて来るもの、《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)でなければならない。

たとえば大岡昇平は次のように描写することによって、魂のことを表現した。

しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。

それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆ど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現した時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。

彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向こうの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)

人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。(大岡昇平“捉まるまで”―『俘虜記』)

アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič(The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,2013、PDF)によれば、神としてのリアル(あるいは魂)は二種類の捉え方がある。

宗教が基盤としているのは、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定である。リアルは、不可能かつ禁じられており、超越的で手の届かないものである。
芸術が基盤としているのは、リアルは内在的かつ手の届かないものという想定である。リアルは、つねに表象に「突き刺さっている」。表象の他の側あるいは裏面に、である。裏面は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。(……)芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。(Alenka Zupančič、2013)

われわれが魂のことを書くと聞くと、通常、宗教的なものを想起しがちだろうが、芸術的なタマシヒがある。

もう一例あげよう。ラカン=アリストテレスのテュケー/オートマン(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])とは、「現実界との出会い rencontre du réel/シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」である。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年)

散文による裂目との遭遇と、詩や喜劇による裂目との遭遇の仕方は異なる。だが肝腎なのは表象の裂目・穴である。 《生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない》(西脇順三郎「詩情」)。たとえば蓮實重彦の「表象の奈落」とはそのことを差している(参照:壺作りと揺らめかし)。

ラカンは、科学的言説についてさえ「穴」という言葉を使って同様な指摘をしている。

科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)

もし《神の外立 l'ex-sistence de Dieu》(ラカン、S22)、あるいは《コトバとコトバの隙間が神の隠れ家》(谷川俊太郎「おやすみ神たち」)を受け入れるなら、コトバとコトバの隙間にタマシヒは「祟る」のである。 

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』ーー「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」

…………

後年の小林秀雄は、ベルグソンとフロイトを引いて「魂のこと」を語っている。

◆質問「魂の存在について」 (講演第四巻「現代思想について」
生理的なものと精神的なものには絶対に密接的な関係があるのです。無論生理的な原因から説明することのできる精神現象はたくさんあるわけです。だけれどもフロイトは精神異常者(言葉を換えてあります)を扱った心理学者なのです。ですから普通の心理ではないわけです。皆異常な真理です。そのような異常な真理を調べてみますと肉体的な生理学的な原因からとても説明ができそうもないような患者が出てくるのです。身体(からだ)は健康なんですからね。

例えばぜんぜん健康な体の男がどうしても癌だというでしょう。おれはどうしても癌だと信じてそういう妄想に苦しめられるでしょう。だからそういった妄想はどこから起るのか。そう言った患者に当った場合には生理的な原因といったものにどうしても医者はこだわっていた時に、彼(フロイト)はそれを全く精神的な原因にあるに違いないという仮説の元にやってみたられは、果してそういう妄想には生理的な原因ではなくてまったく精神的な原因があったんですよ。その精神的な原因を取り除いたら、治っちゃったんですよ。

 そういうことをあの人は初めてやったわけだね。あそこで心理学が大きく展開したということは、心理学というものを今までのようにあくまでも生理学的な基礎からね分析していくのをやめてだね、そういった精神には隠れた精神的な、観念的な原因があると、というふうに新しいメソードを立てたわけです。とともに、必然的に人間の心というものは意識とは違うということが解ったわけです。

 無意識という大きな世界をしょっていて僕らの意識というものは、その間のその一部が現実化しているに過ぎないんで、それで魂があるということが解ったわけです。ベルグソンの研究によれば魂というものは脳の組織の中には存在していないのです。もしも脳組織の中に存在していれば脳組織を調べれば魂が解るわけでしょう。だけれども記憶というものいわゆる魂です。魂という言葉をベルグソンも使っているけれども、記憶現象というものは脳組織の中には存在していないのです。だけれども存在しているんです。

 というのは僕らのような古い習慣的な考え方ですよ。存在するというといつも空間を考えるのです。空間的なものを考えるのです。これは僕らの悟性というものの習慣にすぎないのです。習慣的にそう考えているのです。存在するものが空間を閉めなくともちっとも構わないわけです。そうでしょう空間的には規定できない存在しうるわけです。ということを証明したわけですね(ベルグソンは)。

 だから空間的に存在するものはそういった潜在的な存在の顕現するのを制限したに過ぎないのですよ。制限している機構だということを証明したにすぎないのですよ。だからそれ(魂)がどこに存在にすることは意味がないことです。だけれども(魂は)存在するのです。それがどこに存在するかということは無意味だということを証明したんです。それが今の無意識心理学です。

 じゃぁ意識はどこに存在するんですか? 頭の中ですか? (頭にあるとするならば)じゃぁ生理学じゃないですか。そうじゃないんです無意識心理学というのは心理学なんです。心理を心で心を尋ねる学問なんです。だから心は脳の中には存在していませんよ。だけれども存在しているんですよ。何処にですか? 何処にと問うのは意味がないでしょう。これが今の新しい心理学の根拠です。こういう道をフロイトとベルグソンが拓(ひら)いたんです。

 このことは非常に難しいでしょう。だからそっちの方はほっぽかされたんです。そういう根本的な問題がほっぽかされてしまったんです。それでベルグソンの哲学だとか、一派としての哲学つまりベルクソニズム、それでフロイトはフロイティズムといい、そういったものが流行しているのです。知識として。だけれども彼らが開いた戸口というものはそのくらい重要なものなのです。

 諸君が魂はどこに存在するかというのは無意味なのです。だけれども魂の実在というものは決して空間的に何処に存在するものつまり物的存在に還元しえないものなのです。

口頭質問への応答ということもあるのだろう、ややわかりにくい表現はあるが、ここにはマレビトとしての身体、あるいはレミニサンスとしての現実界に近いことが語られている、とわたくしは捉える。

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)