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2017年6月3日土曜日

壺作りと揺らめかし

岡崎乾二郎)……だから、ぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」『批評空間』 第3期第2号,2001) 
浅田彰:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。 (平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰

「得体の知れないもの」と「不可解なもの」とあるが、二人は同じことを言っている。次のジジェク文の「言い得ぬもの」も同じである。

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,私訳ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

「得体の知れないもの」は、「得体の知れたもの」に固有の「得体の知れないもの」であり、ゆえに人は形式主義に徹して、その裂目としての「得体の知れないもの」に遭遇しなければならない、という考え方である。

現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization(ラカン、S.20)

形式主義の徹底化の行き詰まりにおいて、「表象の奈落」が生じ、そこで、得体の知れないもの=現実界が現われるのである。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』)

このところ、蚊居肢散人はロラン・バルトの「プクントゥム」を連発しているが、凡人はそんなことをしてはならぬのである(問題は、ほとんどの人間は、自分は凡人ではないと思い込んでいることだが)。

じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。(……)

だから、「réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原=翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2)

岡崎乾二郎も浅田彰も、そして蓮實重彦も、自らは凡人の一人だと謙虚に(少なくとも表面的には)思っているので、形式主義の立場をとるわけである。矢鱈に「réel」と口にする資格は自分にはない、と考えているのである。

前期ラカンの「壺作り」の話も同様であって、凡人は壺作りの手順を踏まなければならないのである。

ラカン理論における現実界と象徴界とのあいだの関係性…。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より明瞭な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。( Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002)
壺は穴を創造するものである。その表面の内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼方」を創り出し告知する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼方」をほとんど触れうるものにする。美は何か(別のもの)を隠していると想定される表面の効果である。(ジュパンチッチ。Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,PDF)

ところで自分は凡人ではないと思っている代表的な種族とは何か?(ここでは現代の典型的病いである「ボククラシーje-cratie」という厚顔無恥な連中に触れるのはやめておく)

ーー詩人である。ゲージュツカである。壺作り詩人もいないではない。だが彼らの本来の技は、世界を揺らめかすことである。

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)
詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文)

ラカンも前期の壺作りから後期には詩への色目を使うようになった。

・私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)

・ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).

後期としたが、中期ラカンからその気配がある。

・無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.》(ラカン、S.18)

ーーこの時期のラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えている。

精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール,1996

ーー「機知」とあるように喜劇役者も詩人の一種である。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年、私訳)

※オートマン/テュケーについては、「プンクトゥム=テュケー」を参照。

そして「揺らめかす」とは、ロラン・バルトの鍵言葉である(参照:揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉)。終生、エッセイスト・アマチュア(愛する人)に徹して、論文形式を父性原理の権化と罵倒したバルトだった。

日本にも、えんえんと壺作りをしてリアルに遭遇するなんて阿呆らしい、とおっしゃる詩人がいる。

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

ーー谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」  

 もちろん「世間知ラズ」であることは(少なくともときには)自覚しているのである。

世間知ラズ  谷川俊太郎

自分のつまさきがいやに遠くに見える
五本の指が五人の見ず知らずの他人のように
よそよそしく寄り添っている

ベッドの横には電話があってそれは世間とつながっているが
話したい相手はいない
我が人生は物心ついてからなんだかいつも用事ばかり
世間話のしかたを父親も母親も教えてくれなかった

行分けだけを頼りに書きつづけて四十年
おまえはいったい誰なんだと問われたら詩人と答えるのがいちばん安心
というのも妙なものだ
女を捨てたとき私は詩人だったか
好きな焼き芋を食ってる私は詩人なのか
頭が薄くなった私も詩人だろうか
そんな中年男は詩人でなくてもゴマンといる

私はただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの
世間知らずの子ども
その三つ児の魂は
人を傷つけたことも気づかぬほど無邪気なまま
百へとむかう

詩は
滑稽だ

というわけで? 人は蚊居肢散人のように世間知ラズであってはならない。プンクトゥムなどと連発してはならないのである。ヨイコは形式主義に励まなければならない。

とはいえ、こうつけ加えておこう。

バッハの作品を見て、それが理論的であり、規則に厳格であると人はしばしば感嘆する。しかし、理論的であり、規則に厳格だからバッハの音楽が美しいと考えたら嘘になろう。(小倉朗)

だいたい形式主義者とは、《理論的であり、規則に厳格である》ことにのみ自足してしまって「穴」に出会うことを忘れてしまっている連中が多いのは、あれはどうしたわけか?

谷川俊太郎の「ごめんね」とは、こういった連中にまず言っていると捉えるべきである。

……首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

ところで「子どものころ住んでいた路地の奥」とは何だろうか?

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『不気味なもの』)

ーー人は蚊居肢散人のように素朴にこんなフロイトの言葉を思い浮かべてはならない。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ》(老子「玄牝の門」)

ーー老子だってダメである。

だが人はここでシェイクスピアの『空騒ぎ』と邦訳される喜劇の最高傑作 Much Ado About Nothingの、Nothing は「ヴァギナ」という意味があったことを想い起さなければならない。no thing、すなわち足の間には何もない=玄牝の門なのである。Much Ado About Nothingとは陰門についての大騒ぎである。

とはいえ玄牝の門そのものには関心が薄れてきた(?)蚊居肢散人は、より上品にバルトとジュネ=ジャコメッティを想起することになる。

・ある本質(心の傷のそれ)une essence (de blessure) である。それは変換しうるものではなく、ただ固執する(執拗な視線によって)l'insistance (du regard insistant) という形で反復されるだけである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

では人間の原トラウマとは何か? そんなことはわたくしはわからない。稀にレミニサンスという形態でときに現れる気がするだけである(参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」)。

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )

最晩年のラカンの《人間はみな妄想的だ、Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant 》(Lacan Tout le monde délire、1979)とは、《人間は皆トラウマ的だ tout le monde est traumatisé》(ミレール、Tout le monde est fou Année 2013-2014)という意味である。

原初のトラウマ的体験ーー《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》( フロイト『制止、症状、不安』1926年 )ーーとは、行ったり来たりする「不気味な」母にかかわり、そしてそれは母なる全能性に変換される。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)

こういったことは世間知ラズの蚊居肢散人が勝手に正しいと思い込んでいるだけであり、ヨイコはけっして信用しないように。

ところで中井久夫の幼児型記憶のひとつーー《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》ーーとは次のものである。

「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」

(侯孝賢ー辛樹芬)

ーー蚊居肢散人のトラウマ的画像である。だが何が彼を突き刺すのか? 別に辛樹芬が彼の母に似ているわけではない。彼ノ母ハモチロンモット美人ダッタ・・・




歌声だってけっしてシュワルツコフには負けていなかった。

だがあの画像、この映像ーー、

効果は確かに感じられるのだが、しかしその位置を突きとめることはできず、その記号、その名前が見出せない。その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光 éclair qui flotte なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

レミニサンスとは、ほとんどつねに《ゆらめく閃光 éclair qui flotte》である。そしてプンクトゥムとは、晩年のドゥルーズ曰くの《時の結晶 cristal du temps》(=「リトルネロ ritournelle」)なのである(もちろん蚊居肢散人の思い込みである・・・)

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

至高のリトルネロとは何か? 《 la langue comme ritournelle… lalangue, si !》(ラカン、S21)

ーーララング lalangue、すなわち、《母の言葉(母の舌語 la langue dite maternelle)》(S20)。これを母国語などと訳してはけっしてならない。

身体とララングとの最初期の衝撃。これが、法なき現実界、論理規則なき現実界を構成する。choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique.(ミレール、2012,PDF)
真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢の脅威でも、性交の目撃でもない。…エディプスや去勢ではないのだ。真のトラウマの核は、言葉 la langue(≒ララング)との関係にある。 (ミレール、"Joyce le symptôme"、1998)

「子どものころ住んでいた路地の奥」とはララング(≒喃語)である。蚊居肢散人はなぜか断言的にそう言ってしまう。そして、このララングとの遭遇は、詩人のほうが壺作り人よりは、はるかに優位にある。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

ーーごめんね