◆Masters of Photography: Andre Kertesz
ああ、なんと美しいバッハのフーガだろう、と思い、
このふと流れてきたヘ短調のフーガ(BWV857)を
楽譜をみたり(自分でボロンと弾いてみたり)
何人かの演奏家の演奏を聴き直してみた
Rosalyn Tureck やら Richter やらGulda やら Gould やら。
これはバッハの至高のフーガのひとつだろう。
でもそれでさえ飽きるね、
何回も聴いたり自分で演奏したりしてると。
天使が通り過ぎるように、鳥が通り過ぎるように
ふときこえてきたときが最も美しい。
プロの演奏家ってのはどうしてるんだろう
彼らは何度も演奏して飽きないんだろうか?
バッハならまだしもベートーヴェンなんて
とくに中期のベートーヴェンなんてよくやるよ
あんな媚態いっぱいの曲なんて
実は退屈してんんじゃないのだろうか、彼らは。
ただ観客に要求されるから演奏するんじゃなかろうか
このふと流れてきたヘ短調のフーガ(BWV857)を
楽譜をみたり(自分でボロンと弾いてみたり)
何人かの演奏家の演奏を聴き直してみた
Rosalyn Tureck やら Richter やらGulda やら Gould やら。
これはバッハの至高のフーガのひとつだろう。
でもそれでさえ飽きるね、
何回も聴いたり自分で演奏したりしてると。
天使が通り過ぎるように、鳥が通り過ぎるように
ふときこえてきたときが最も美しい。
プロの演奏家ってのはどうしてるんだろう
彼らは何度も演奏して飽きないんだろうか?
バッハならまだしもベートーヴェンなんて
とくに中期のベートーヴェンなんてよくやるよ
あんな媚態いっぱいの曲なんて
彼(ベートーヴェン)は、声をあげて泣いていた。その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳から離れない。彼が誇張したとはいわないが、その泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知っていた。(吉田秀和)
実は退屈してんんじゃないのだろうか、彼らは。
ただ観客に要求されるから演奏するんじゃなかろうか
父の死のとき、アニェスは葬儀のプログラムをつくれねばならなかった。儀式は弔辞なし、音楽としてマーラーの『第九交響曲』の「アダージョ」(第四楽章)を流したいと彼女は望んだが、それを父はとりわけ好んでいたのだった。だが、この音楽はひどく悲しいものなので、アニェスは式のあいだ涙を抑えられないのではないかと心配していた。衆人環視のなかで泣くのは許されないことだと思ったので、彼女は『アダージョ』をレコードプレイヤーで録音して、聴いてみた。一度、それから二度、それから三度。音楽は父の思い出を呼びおこし、彼女は泣いた。しかし八度目だったか九度目だったか、「アダージョ」が部屋のなかにひびいたとき、音楽の力は衰えていたし、十三度目になると、アニェスはパラグアイの国家がすぐ眼の前で演奏されるくらいにしか心を動かされなかった。この訓練のおかげで、彼女は葬儀で涙を流さなかった。
感情といいうものは、そもそも、われわれのなかに知らず知らずに、そしてしばしば意に逆らって湧きあがってくる。われわれがそれを感じようと欲すると(ドン・キホーテがドゥルネシアを愛そうと決めたように、われわれがそれを感じようと決めると)、感情はもはや感情でなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。ふつう一般にヒステリーと呼ばれるものになってしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは(いいかえれば、感情を価値に仕立てた人間は)、じっさいホモ・ヒステリクスと同一なのである。
そう言ったからといって、感情を模倣する人間は、その感情を感じないということを意味するのではない。老いたリア王を演じる俳優は、舞台の上で、観客を前にして、見捨てられて裏切られた人間の正真正銘の悲しみをはっきり感じているが、しかしその悲しみは上演が終る瞬間に消えてしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは、その強烈な感情によってわれわれを眩惑したすぐあとで、今度は説明しがたい無感動でわれわれを面食らわせるのである。(クンデラ『不滅』)
ま、いいさ、
なにか別の悦びがあるんだろう
人のことは言えない
〈彼〉はたとえばフォーレになかなか飽きない
◆Steven Isserlis & Jeremy Denk — Fauré: Sonata for Cello & Piano No. 2 in G minor, Op. 117
いやあこの Isserlisの演奏するチェロソナタは、
まるでヴァントゥイユだよ
すくなくともこのop117をこれほど美しく演奏したチェロ奏者は
いままで誰もいない、ーー〈彼〉はそうは断言する。
最後の部分がはじまるところでスワンがきいた、ピアノとヴァイオリンの美しい対話! 人間の言語を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていた、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで間の適切さ、答の明白さをもつことはなかった。
最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界――このソナタ――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか?
そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受けとめるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)
最晩年のフォーレは人生に似ていた。
それはピアノ五重奏OP115や遺作弦楽四重奏OP121も同じである。
このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。
しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものより長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。
それにまた、すこし奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものはーーこのソナタについて私が要した時間のようにーー公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(プルースト『花咲く乙女たちのかげにⅠ』)
ところでバッハにとってヘ短調は特別の調だった。
インヴェンションのヘ短調も際立って美しい。
二声のBWV 780も三声のBWV795も。
インヴェンションのヘ短調も際立って美しい。
二声のBWV 780も三声のBWV795も。