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2017年6月2日金曜日

角を曲がったところで待っているもの

現実界とはただ、角を曲がったところで待っているもの、ーー見られず、名づけられず、だがまさに居合わせているものである。(ポール・バーハウ、Byond gender, 2001)

角を曲がったところで待っているのは何か。もちろん〈女〉である。〈女〉とは何か? 《女は何を欲するのか Was will das Weib ? 》(フロイト)ーーこういった感慨をもたらす不気味な存在である。そして実はこの〈女〉は斜線を引かれている、《Lⱥ femme》

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

もちろんこれだけでは何のことかわからないだろう。ワタクシモワカラナイ……とはいえ、もっとも注意すべき肝腎なことは、《「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である》(ミレール、The Axiom of the Fantasm)ことである。 

それ以外は、人はそれぞれ思索したらよいのである(参照:神と女をめぐる「思索」)。

いや思索などせずに小説を読んだほうがわかりやすいかもしれぬ・・・

角を曲って細い小路へ這入った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊い手を額の所へ翳すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍へ寄って来るまでその態度を改めなかった。
小路の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。「大変。忘れものがあるの」(夏目漱石『明暗』)

漱石の遺作『明暗』はよく知られているように(?)、角を曲がったところにあらわれる現実界の小説である。もちろん現実界とは〈女〉だけではない。ようは言語によって表象されえないものである。

現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11、12 Février 1964)

ラカンのトラウマとは穴ウマのことである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。ラカン、S21、19 Février 1974 )

 穴ウマとはブラックホール、その無限の吸引力のことである。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

こうして廊下の角を曲がったところでブラックホールが待っている。すなわち《大きくなったり小さくなったりする不定な渦》が。

廊下はすぐ尽きた。そこから筋違に二三度上るとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるもののごとくに揺れた。

 水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所を彼に忘れさせた。彼はただもったいないと思った。手を出して栓を締めておいてやろうかと考えた時、ようやく自分の迂濶さに気がついた。それと同時に、白い瀬戸張のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦が、妙に彼を刺戟した。 

あたりは静かであった。膳に向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯って、おおかたこのくらいだろうと暗に想像したよりも遥かに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人がどこにいるのかと疑いたくなるくらいであった。その静かさのうちに電灯は隈なく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした

さらにはまた、分身という現実界との遭遇もある。

分身 Doppelgänger とは、私 moi プラス対象aーー私のイメージに付け加えられた不可視の部分ーーと同じものである。…ラカンは「眼差し」を喪われた対象の至高の現前 presentationとした。鏡のなかで、人は自分の目を見る。しかし喪われた部分である眼差しを見ない。…分身が生み出す不安とは、対象の出現 appearance の最も揺るぎない徴 the surest signである。(ムラデン・ドラ―1991、Mladen Dolar, Lacan and the Uncanny,PDF

正午にそれは起こるのである。

正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」ーー正午、「一」は「二」となる)

だが真夜中にも起こる。

彼はすぐ水から視線を外した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据えた。しかしそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像に過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具えつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。彼にはその意味が解せなかった。久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被さっていた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。

彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理も男としてはもったいないくらい濃かに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。 

しかし彼の所作は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室を探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈にできていた。第三に尋常のものと違って、擬いの西洋館らしく、一面に仮漆が塗っていた。 

胡乱なうちにも、この階子段だけはけっして先刻下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻りをする覚悟で、鏡から離れた身体を横へ向け直した。        

とはいえやはり最終的には、階段の角を曲がったところで待っているものは〈女〉である。

するとその二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。(……)

ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝すのが恥ずかしかったからでもある。 

けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩を回らそうとした刹那に彼は気がついた。

「ことによると下女かも知れない」 

こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。「誰でもいい、来たら方角を教えて貰おう」 彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵へ跳ね上る上靴の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」 

不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足はたちまち立ち竦んだ。眼は動かなかった。…………(夏目漱石『明暗』)

ーーいやあシツレイ! 意味不明のことを書いてしまって。これは《角を曲がったところで待っているもの》という表現に出会って、ふと思いついた連想にすぎない・・・

だが漱石の遺作がいかにすぐれて現実界を描写しているかはお分りになったことであろう。ラカン的な現実界とはけっして「彼方」にあるものではない。われわれの現実の世界の裂け目にふと現れるものである。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)