このところ「魂のこと」をめぐっていくらか記しているのだが、そもそも魂と精神と心はどう違うのだろうか。
わたくしは哲学にはあまり縁がないほうなので、テキトウなことを書くことにするが、古典ギリシャでは、最も基本的な区分として、プシュケー(psyche) とソーマ( soma) があり、そしてこのプシュケーとソーマは、日本では「心と身体」とされることが多いぐらいは知っている。だがこのプシュケーは、魂でもあり精神でもあり心でもある。
わたくしはアリアドネに偏愛を捧げているので、とってもお化け度が高い。みなさんお気おつけを! 《アリアドネはアニマ、魂である Ariane est l'Anima, l'Ame》(ドゥルーズ、Nietzsche et la Philosophie)
とはいえ、わたくしはこのあたりのことにひどく不案内である。たとえばプシュケーにかかわるらしいプネウマ(pneuma)となると、かつて聞いたことはあった気はしないでもないが、はて、プシュケーとプネウマはどう違うのだったか? と考え込んでしまう無知者である。
《プネウマ(pneuma)=精神・霊とは、もともと気息・風・空気を意味したが、ギリシア哲学では存在の原理とされた》そうだ。すなわち我々の存在の核。これは精神分析やニーチェの考え方とはまったく逆のようにみえるが、わたくしはあまりこだわらない方である・・・ひょっとしてプネウマとは気息とあるように、精神的なものではなく、肉体的なものではないか、などと言うつもりも毛頭ない・・・
・・・というわけで(?)、肉体がエライのである。精神が我々の核などということはありえない。そもそも心と身体などという二元論がいけないのである。
スピノザは《衝動 appetitus とは人間の本質 hominis essentia》と言っている。
『エチカ』第三部「情動 affectus」論にはこうある(畠中訳)。
この残存現象こそヘーゲルの世界の夜である。
だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。
とはいえ、わたくしはこのあたりのことにひどく不案内である。たとえばプシュケーにかかわるらしいプネウマ(pneuma)となると、かつて聞いたことはあった気はしないでもないが、はて、プシュケーとプネウマはどう違うのだったか? と考え込んでしまう無知者である。
というわけで、ネット上をいくらか探り次の図を拾った(参照)。
ーーいやあスバラシイ! これが現在の標準的解釈かどうかは知らぬが、わたくしにはこの程度でよい。おなじブログにはさらに由緒正しそうな次の図もある。
魂とは肉体のなかにある何ものかの名にすぎない。
Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.(……)
わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られていない賢者がいる。ーーその名が「本来のおのれ」である。君の肉体のなかに、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。Hinter deinen Gedanken und Gefühlen, mein Bruder, steht ein mächtiger Gebieter, ein unbekannter Weiser - der heisst Selbst. In deinem Leibe wohnt er, dein Leib ist er.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「肉体の軽侮者」)
肉体は、いしにえの「魂」よりも、驚くべき思想(精神活動
Gedanke)である。der Leib ist ein erstaunlicherer Gedanke als die alte »Seele«.(ニーチェ『権力への意志』659番)
・・・というわけで(?)、肉体がエライのである。精神が我々の核などということはありえない。そもそも心と身体などという二元論がいけないのである。
スピノザは《衝動 appetitus とは人間の本質 hominis essentia》と言っている。
『エチカ』第三部「情動 affectus」論にはこうある(畠中訳)。
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9)
Hic conatus cum ad mentem solam refertur, v o l u n t a s appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur a p p e t i t u s , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(E T H I C E S)
現在、英語圏では、この「衝動 appetitus」は Trieb と訳されることが多い。すなわち「欲動」である。
たとえば注釈者たちによって次のように記述されている。
・Körper Trieb (appetitus)
・Appetitus ist Trieb
たとえば注釈者たちによって次のように記述されている。
・Körper Trieb (appetitus)
・Appetitus ist Trieb
ーーいやあスバラシイ、Körper Trieb(身体の欲動)などとは! これこそラカンが《欲動の現実界 le réel pulsionnel》と呼ぶものである。
なにはともあれエチカ第三部、定理9の文は、《自己の努力が精神だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる》と訳することができる。
この文をフロイトの欲動の定義とともに読んでみよう。
この欲動が、スピノザのいうように《人間の本質 hominis essentia》であり、我々の存在の核である。《欲動 appetitus とは人間の本質に他ならない》(スピノザ)
ニーチェは「権力への意志」を「欲動の飼い馴らされていない暴力」としている。
「欲動 Trieb」は、心的なもの(魂的なもの Seelischem) と身体的なもの(Somatischem) との「境界概念 Grenzbegriff」である(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889)
「飼い馴らされていない」という語をフロイトは次のように使っている。
あるいは《リビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
お分りだろうか? 精神や心などというものは、この原初の死の欲動を飼い馴らす仕組みに他ならない。フロイトが《心的被覆 psychischen Umkleidungen》(『マゾヒズムの経済的問題』)、ラカンが《 l'enveloppe formelle du symptôme 症状の形式的封筒 》(E.66、1966)と呼んだものにすぎない。
自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない欲動の蠢きungebändigten Triebregung を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)
お分りだろうか? 精神や心などというものは、この原初の死の欲動を飼い馴らす仕組みに他ならない。フロイトが《心的被覆 psychischen Umkleidungen》(『マゾヒズムの経済的問題』)、ラカンが《 l'enveloppe formelle du symptôme 症状の形式的封筒 》(E.66、1966)と呼んだものにすぎない。
そしていくら飼い馴らそうと努めても、原初の身体の欲動の残存現象があるのである。この居残った対象a・欲動の《蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute》(ラカン、S10)。
ーー唐突ながら、わたくしのアリアドネは三日に一度ぐらいは暴動を起こすのである。どうか皆さん、お気をつけを!・・・
とはいえ人は学者などやっていると、アリアドネが何であるのか、いまだ気づきさえしていない。いやそんな問いさえない。
《アリアドネは誰であるかWer Ariadne ist 》ではないのである。《アリアドネが何であるか was Ariadne ist!》なのである。ここに最大のヒントが隠されている。くりかえせばアリアドネは魂であると言ったドゥルーズはもうすこしのところまで来た、そして《魂の調子は強度の波動である。La tonalité d'âme est une fluctuation d'intensité》(『ニーチェと悪循環』)とクロソウスキーが語った。しかも 《権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか? 》とも言い放った・・・
ーー唐突ながら、わたくしのアリアドネは三日に一度ぐらいは暴動を起こすのである。どうか皆さん、お気をつけを!・・・
とはいえ人は学者などやっていると、アリアドネが何であるのか、いまだ気づきさえしていない。いやそんな問いさえない。
わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)
《アリアドネは誰であるかWer Ariadne ist 》ではないのである。《アリアドネが何であるか was Ariadne ist!》なのである。ここに最大のヒントが隠されている。くりかえせばアリアドネは魂であると言ったドゥルーズはもうすこしのところまで来た、そして《魂の調子は強度の波動である。La tonalité d'âme est une fluctuation d'intensité》(『ニーチェと悪循環』)とクロソウスキーが語った。しかも 《権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか? 》とも言い放った・・・
(クロソフスキー《ディアーナとアクタイオーンII》1957 ) |
・・・さてなんの話だったか。フロイトの残存現象である。
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。
リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。
精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)
だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。
力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。
精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)
このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。
フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」等と呼んだのである。
フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」等と呼んだのである。
なにはともあれ核心はーーこのところ繰り返しているがーー「魂としての身体」である。魂と身体の境界にあるものである。我々の核はここにしかない。もう一度フロイトを繰り返そう、《欲動 Triebは、魂的なもの Seelischemと身体的なもの Somatischemとの「境界概念 Grenzbegriff」である》。