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2017年10月2日月曜日

「科学精神」という魂の墓場

アリストテレスの『peri psyches』ーー「 プシュケーについて」ーーは、かつては『霊魂論』という邦題がつけられた(ラテン語では『デ・アニマ De Anima』)。その後、『心とは何か』 、『魂について』とも訳された。
あるいは、

・心理学 Psychologie は「psyche+logos(学)」
・精神医学 Psychiatrie は「psyche+iatoria (治療)」

つまり心=精神=魂となる。

プシュケーとソーマ」にて図式化した表をふたたび掲げれば、



語の意味とは、言語内におけるその用法である。(ウィトゲンシュタイン『哲学研究』)

この心・精神・魂の使用法は、日本共同体では、英語の語の使用法と似ているらしいが、とはいえ、英語ではpsychology(心理学) 、 Psychiatry(精神医学)である。すなわち日本語には psycheに(直接に)相当する語がない。

あるいは精神病 Psychosis(独仏語では Psychose)などともされる。

ーー心理学も精神医学、精神病もそろそろ、魂学、魂治療、魂病とでも訳すべきではなかろうか。そのように訳せば、おそらく人は気味悪がって、そんな学など消滅するかもしれぬ・・・

もうすこし穏健にいえばーーそして日本語の用語の使い方を考慮すればーー、神経症は「心病」、精神病は「魂病」にすべきではなかろうか?

これはーー私ノ魂ニ云ワセレバーーエディプス期以後病/前エディプス期病に相当する。

ラカン派なら心病/魂病とは、《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》/《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》無意識(ミレール2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)にかかわる病である。

父の眼差し病/母の声病としてもよい(参照:「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行)。ようするにファザコン病/マザコン病である・・・(フロイトには「父拘束 Vaterbindung/母拘束 Mutterbindung」、ファザーコンプレックス Vaterkomplexe/マザーコンプレックス Mutterkomplexという用語がある )(参照

フロイト用語の精神神経症/現勢神経症はーーコレモ勿論私ノ魂ニ云ワセレバーー、心病/魂病である。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)

このフロイトの「精神神経症 Psychoneurose/現勢神経症 Aktualneurose 」は、ラカンの「父なる超自我/母なる超自我」とともに読まねばならぬ。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)

さて(?)、このように「概念の創造」--ドゥルーズ的意味であるーーすれば、多くのことが明瞭になるのに、日本の精神医学にかかわるボケたちはなぜしないのだろうか?

おそらく「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」なのだろう・・・

木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直(まっすぐ)かと云ふと、決して真直でもない。只真直な短い枝に、ある角度で衝突して、斜に構へつゝ全体が出来上って居る。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さへちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであらう。世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。(夏目漱石『草枕』十二)

(もちろん御覧の通り、冗談でいっているわけだが、なかば本気であるやもしれぬ……、わたくしの魂のうちは、わたくしでも分からないのである)

ここで上の記述は、中井久夫の次の文の「わたくしの魂のなかでの変奏」であることを断っておこう。

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収)

…………

もちろんわたくしは知っている、現在のエビデンス主義に代表される科学的精神にとっては、魂などという言葉は、抹殺すべき語であると考えていることを(参照:エビデンスに基づく「科学的」精神)。

しかし彼らは人を愛することがあるのだろうか?

愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

あの連中は、《単純に「愛の問題 les choses de l'amour」を脇に遣るのである》(Lacan, Le savoir du psychanalyste » 1972)

ラブレーはこう言っている、《良心なき科学は魂の墓場に他ならない Science sans conscience n'est que ruine de l'âme 》。まさにその通り。坊主の説教なら、昨今の科学は魂の荒廃 ravages をもたらしているとの警告になるが、周知の通り、この時世では魂は存在しない n'existe pas。事実、昨今の科学は魂を地に堕としてしまった ça fout l'âme par terre !

あなた方は気づいていないだろうが、私が言いたいのは、科学は魂を全く役立たずにしてしまう ça la rend complètement inutileということだ。そう、真理をこの世界に露呈させる révéler la vérité au mondeとは、世界自体をこの世界へと露呈させることである c'est révéler le monde à lui-même。魂と同じように、世界も存在しないということになる il n'y a pas plus de monde que d'âme。(ラカン、S21, 19 Février 1974)

《良心なき科学は魂の墓場に他ならない Science sans conscience n'est que ruine de l'âme 》(ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエル』)とは、難解な語彙群が集まっている(まず通常は、廃墟と訳されるだろう ruine を墓場と訳してみたことを断っておかねばならない)。

それ以外にも、科学、良心、魂である。

ーー科学Scienceとは「知識」としたほうが通りがいいのかもしれない。いずれにせよラブレーのいう科学とは、ガリレオ以前の科学である。

だが最も難解なのは良心 conscienceである。

フランス語でもスペイン語でもイタリア語でも、「良心」という言葉と「意識」という言葉とは同じである。日本人はちょっと当惑する。

これはラテン語の conscientia(コンスキエンティア)にさかのぼる。それが各国語に語形変化しただけのことである。聖ヒエロニスムが聖書をラテン語に訳したとき、ギリシャ語の syneidesis(シュネイデーシス)の訳に使ったのである。このギリシャ語は、もともとは「共に知ること」という言葉で、「他人(の傷みなど)を知ること」を指し、次に自己認識をも指した。キリスト教に入って初めて超越的なものとの関係の意味になって、「神に知られるもの」という意味で「良心」と「意識」とが同じ言葉で表されるようになった。「良心」と「自己認識」はひとつである。だから、「無意識」が自分の行動を決定しているというフロイト派精神分析の考えに、西欧の人が大変な抵抗を覚えるのだと私は思う。「自分が知らない自分の内なるもの、すなわち神に自分の責任をもってみせられないもの」に動かされているなんて、とんでもないことである。それは内なる「悪魔」ではないか。

ドイツ語の意識は「ゲヴィッセン」といって「知っていることの総体」である。ルターが聖書をドイツ語に訳するときに「シュネイデーシス」につけた訳である。意味からは「意識」に近いようであるけれども「良心」を指す。「自分が知っていることの総体」は、神との関係において初めて「良心」の意味をもつことができる。我々なら、だれも見ていなくても「天知る、地知る、己知る」ということが一番近そうである。

なるほど、英語では「良心」 conscienceと「意識」consciousness とを区別するけれど、前者がフランス語同様、元来は双方を指していたのであり、後者は学術用語として一七世紀に生まれた、ずっと遅い言葉である。「良心」と「意識」の分離はどうもプロテスタンディズムの成立と深い関係がありそうである。

「意識」と「良心」とはいまでもフランスやスペインやイタリアでは、強いて区別するときには「心理的」「道徳的」と形容詞をつける。そういう近さは、日本語からは見えてこない。「意識」は漢語であるけれども、大乗仏教の翻訳によく使われた言葉である。

日本語の「良心」という言葉は、元来は『孟子』に出てくる言葉である。キリスト教は人間を罪深い存在とするから、孟子の性善説とは本来非常に違うものであるけれども、井上哲次郎という、明治初期にたくさんの哲学用語を日本語に訳した人が、ドイツ語の Gewisswen を訳すときに『孟子』から引っ張ってきたという。聖書の日本語訳のほうが先かもしれないが、私にはそこまで調べられない。

このように、西欧の「良心」は神と向かい合う自己意識である。神の姿が遠くなった近代西欧において、意識は「自己意識」を指すものになった。ここで、近代哲学においてもっともやっかいな問題の一つ、「他者問題」すなわち「他者認識が可能か」という問題が出てきた。「神のごとき自己が認識する自己等価物」という意味では他者は認識できないと私は思う。ベルギーのルーヴァン大学を中心とする新トマス主義のカトリック哲学は、「自己」を「他者からの贈り物」とするそうだが、この考えは、私にはどこか真実さが感じられる。

逆にキリスト教以前にさかのぼれば、コンスキエンティアもシュネイデーシスも「他人(の痛み)を知ること」であった。オクスフォード・ギリシャ語・英語大辞典の最初の例は産婆が(産婦の)痛みを共に感じることに関するものである。だから、だぶん、そんなに高尚なことでなくてよいのだろう。私は、人がけがをした瞬間、「あ、痛っ」と叫んでしまうことが何度かあった。こういうのもシュネイデーシスなのだろう。だとすれば、神を介する以前の古代ギリシャ・ローマの倫理的基礎は惻隠の情とそんなに遠くない。(中井久夫「ボランティアとは何か」『時のしずく』所収)

コンスキエンティア conscientia は「他人(の痛み)を知ること」とある。

すなわちラブレーの言葉を訳し直して、《他人(の痛み)を知ることなき科学は、魂の墓場である Science sans conscience n'est que ruine de l'âme 》としておく。