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2017年9月29日金曜日

魂としての身体

魂とは何だろうか? 
ひょっとして身体のことではなかろうか?

魂は身体だって?
バカな! 

だがイマジネールな身体のことではない
マレビトとしての身体 corps étranger のことである(参照

マレビトとはもちろん神のことでもある。
そして、《魂のことを追いかけて行くと、最終的には神に行きあたるわけでしょう?》(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部)

ゆえにマレビトとしての身体とは、先ず魂としての身体である・・・

……なぜなら確かに、これら渇き、飢え、苦痛、等々の感覚は、精神と身体との結合と、いわば混合とから生じた或る不分明な思惟の仕方にほかならないから。(三木清訳)

Car en effet tous ces sentiments de faim, de soif, de douleur, etc., ne sont autre chose que de certaines façons confuses de penser, qui proviennent et dépendent de l’union et comme du mélange de l’esprit avec le corps.(デカルトデカルトMéditation 「第六省察」)

このデカルトの文は、「私は身体で考える je pense avec le corps」と言い換えうる。ごく当たり前の話である。ひとは身体で考えなかったら何で考えるというのか?

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。

Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン, S20. 15 Mai 1973)

※これらの議論を「科学的に」考えたい方は、ベンジャミン・リベットの議論を見よ(「良心と意識」)

…………

わが魂よ、不死を求めず、
きみの限界を汲み尽くせ。

Μή, φίλα ψυχά, βίον ἀθάνατον
σπεῦδε, τὰν δ' ἔμπρακτον ἄντλει μαχανάν.

 ーーー ピンダロス Pindare「ピュティア祝勝歌 Pythiques」


このピンタロスは、ヴァレリーの「海辺の墓地」のエピグラフである(中井久夫訳)

以下、「海辺の墓地」から

ああ、太陽……魂に何たる亀の影、
大股のアキレスが金縛り!
Ah! le soleil. . . Quelle ombre de tortue
Pour l’âme, Achille immobile à grands pas!

違ふ……立て!
Non, non!. . . Debout!

乙女の布裂く叫び
Les cris aigus des filles


ーーああ、なんという美しい詩句たち
これこそ魂としての身体の言葉である

ヴァレリー詩には独特の奇妙な毒が確かにあると私は感じている。それはしばしば行間から立ちのぼって、私の手を休めさせずにはおかなかった。時には作業は何日も停滞するのであった。(中井久夫「ヴァレリーと私」)