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2018年6月25日月曜日

イマージュの背後の無

モノ La chose、それはもし美あるいは女とともに avec une belle ou avec une dame 現れないとしても、スクリーンの上の暗くされた部屋のなかのイマージュとともに dans la salle obscure avec une image qui est sur l'écran 現れる。(ラカン、S3, 31 Mai 1956)




確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)

ーーゴダールにとって、なぜカーテンの背後には女たちばかりがいるのだろうか?

我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960)


(ラカン、セミネールⅣ、対象関係論)


(ラカンのセミネール4の図において)ここに、主体、一つの点、すなわちヴェール(カーテン)がある。他の側には無がある。Ici, le sujet, un point ; le voile ; et de l'autre côté, un autre point, le rien.

もし、ヴェールがないなら、我々は無があるのを見る。S'il n'y a pas de voile, on constate qu'il n'y a rien。

もし、主体と無とのあいだにヴェールがあるなら、すべてが可能である。 Si entre le sujet et le rien il y a un voile, tout est possible.

人はヴェールにて戯れ jouer avec le voile、事物を想像する imaginer des choses ことができる。…ヴェールは無から何ものかを創造する le voile crée quelque chose ex nihilo。ヴェールは神である Le voile est un Dieu。(ジャック=アラン・ミレール 、享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE 、1994年)





セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢、母の去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュのような見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)

(ラカン、セミネールⅩ、「不安」、5 juin 1963)


モノChoseは常にどういうわけか空虚videによって表象される。(ラカン、S7. 03 Février 1960)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

ーー《モノとは対象aの初期ヴァージョン》(フィンク、1995)であり、《外密 extimitéとは、フロイトの「不気味なもの Unheimliche 」のラカンの翻訳》(ムラデン・ドラー、1990)でもある。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


(『さらば、愛の言葉よAdieu au Langage 』, 2014)


対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマ(troumatisme )をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )

以上より、モノ das Ding、対象a(原対象 objets a primordiaux)、穴 trou、空虚vide、 − φ(去勢)は、ほぼ等置できる。

(ラカン、セミネールⅩ、「不安」, 5 juin 1963)


イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

ーーイマージュが覆っているのは、無としての原対象a(穴Ⱥ、空虚 vide= − φ )である。

無、たぶん? いや、ーーたぶん無でありながら、無ではないもの
Rien, peut-être ? non pas – peut-être rien, mais pas rien(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーーBarbara Cassinはこのラカンにこう言わせたかったとしている、《無ではなく、無以下のもの Pas rien, mais moins que rien (Not nothing, but less than nothing)》

ジジェクの2012年の書名はここから来ている。「無以下のもの」とは、ジジェクにとって空虚としての対象aである。《女とは、対象aである》(ジジェク『LES THAN NOTHING 無以下のもの』2012年)

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)
我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

(ポール・バーハウ、2004)


ーー真ん中の、a/ − φ とは、a/Ⱥ とも書きうる。そして分子の a とは見せかけsemblant(≒フェティッシュ)としてのaである。さらに言えば、semblant a/objets a primordiaux とも書きうる。分母はすべて「無 rien」「空虚 vide」と(ほぼ)等価である。

ラカン派にとってイマージュとは、無を覆うものである。

イマージュは、見られ得ないものにとってのカーテン(スクリーン)である。l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
人が見るもの(人が眼差すもの)は、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


(ポール・バーハウ、2011)


(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959 )
quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)




ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものから来る諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)





本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
女は、女にとっても抑圧(追放)されている。男にとってと同じように。La femme est aussi refoulée pour la femme que pour l'homme.(Miller J.-A., Ce qui fait insigne, 1987年)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose.(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert , 2018年主流ラカン派会議の中心議題)


(はなればなれに  Bande à part、1964)


女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)


 (「結婚したひとりの女 Une femme mariée」邦題:恋人のいる時間、1964)

存在するのは女たち les femmes、一人の女 une femme そしてもう一人の女 une femme そしてまたもう一人の女 une femme・・・である。……

女というものは存在しない La femme n’existe pas。われわれはまさにこのことについて夢見る。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめない。(ミレール 、El Piropoベネズエラ講演、1979年)

(左から、ミレール2007、2009、2011)


――《S(Ⱥ)とは、大他者のなかの穴 trou dans l'Autre のシニフィアンである》(ミレール、2007)。

«斜線を引かれた Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化dédouble される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

− φは、去勢(母の去勢)である。《ラカンの不可能な享楽− J は、フロイトの − φのこと》(ミレール、2009摘要)

人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

他方、小さなファルスφとは、想像的ファルス(≒フェティッシュ)、あるいは見せかけsemblantとしての対象aである(逆に、原対象aとは、− φに相当する)。

フェティッシュは女のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年)
(リアルなファルス、あるいは象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。(J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997年)

これは勿論、フェティッシュとの結びつきを示している。フェティッシュは、見せかけが無のヴェールであるのと同様に、空虚を隠蔽する。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)