・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。
・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった uch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
冒頭にこう引用したからといって、この考え方を必ずしも十全に受け入れているわけではない。
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とはいえ、何度か遠回しには記しているけれどーーたとえば「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである」ーー、ラカンにとって死とは享楽のこと。ダッタラドウシテボクハイツマデモイキテンダロ?
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接な関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort (Marga Auré, A risque de mort, 2009)
・享楽と死はきわめて接近している Jouissance and death are quite close
・享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
ラカン自身の言明なら次の通り。
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。
それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
ここでラカンは、フロイトの「死の欲動」を「死の漂流」としたいと提案している。
三年前にはこう言っている。
私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
ラカンにとって《すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort》(ラカン、E848、1966年)である。
したがって、「享楽の漂流」とは、「死の漂流」(漂流とは「逸脱」とも訳せる)のことである。
すなわち「享楽」=「死」である。
巷間で享楽と呼ばれるものは、すべて基本的には剰余享楽である。
たとえば「ファルス享楽」は剰余享楽の変種。
ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。(Richard Boothby , Freud as Philosopher、2001)
ファルスは繋辞である le phallus c'est une copule。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。
対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽の様式 mode de jouissance を刻んでいる。
人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽 jouissance du corps propreに向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-siste する享楽に。
ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた 「享楽する意味 sens-joui」である。
我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界の審級なかに享楽を孤立化する isoler la jouissance comme de l'ordre du réel こと、すなわち、意味において外立的 ex-sistant au sens であることである。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)
最も真の享楽に近づいていたポジションにある「他の享楽 S(Ⱥ) 」でさえ、実質的には剰余享楽。
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(ミレール 、Première séance du Cours 2011)
つまり他の享楽とは、欲動を飼い馴らす原防衛にかかわる。
これらは次の図が示していること(上からセミネール19、セミネール20、三人目の女)
真ん中の図がまず一番わかりやすいだろう。見せかけ semblant の主体(欲望の主体)は、享楽に向う。だが享楽は不可能である(主体の死だから)。ゆえに剰余享楽が生れ(Produit)、最初の図が示しているように、享楽=死のまわりを循環運動する。
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
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ミレールはこうは言っている。
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽 la jouissance qu'on dit de l'addiction と呼びうるが、厳密に、ラカンがサントーム(=原抑圧:[参照」)と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
これが現代ラカン派においての、フロイトのいう 「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」(原抑圧)・「欲動の根 Triebwurzel」) である、《自閉症は主体の故郷の地位にある。ミレール 、2007 l'autisme était le statut natif du sujet》
自閉症はもちろん分裂病に近似し、分裂病のさらなる核である。
ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDFーーララング定義集)
とはいえ自動的享楽自体、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps》(参照)ための強制された反復運動であり、原享楽(不可能な享楽)は、この自動的享楽のさらに向こうにある。
もちろんこういったことは疑問符つきで語っておかねばならないだろう。ミレールさえ原対象a(=不可能な享楽Ⱥ)と剰余享楽としての対象aについていまだ疑問符つきで語っているのだから。
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)