2018年6月9日土曜日

で、きみの自由はなんのためなんだい?

小林秀雄をいくつかの断片をたまに読みかえすと、ああ作家ってのはこうやって読まなくってちゃな、とあらためて実に惚れ惚れする。

反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。彼は妹への手紙で言っている、「自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ」と。ニイチェがまだ八つの時、学校から帰ろうとすると、ひどい雨になった。生徒たちが蜘蛛の仔を散らすように逃げ還る中で、彼は濡れないように帽子を石盤上に置き、ハンケチですっかり包み、土砂降りの中をゆっくり歩いて還って来た。母親がずぶ濡れの態を咎めると、歩調を正して、静かに還るのが学校の規則だ、と答えた。発狂直前のある日、乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会い、彼は泣きながら走って、馬の首を抱いた。ちなみに彼はこういうことを言っている、「私は、いつも賑やかさのみに苦しんだ。七歳の時、すでに私は、人間らしい言葉が、決して私に到達しないことを知った」。およそ人生で宗教と道徳くらい賑やかな音を立てるものはない。ニイチェは、キリストという人が賑やかだ、と考えたことは一度もない。(小林秀雄「ニイチェ雑感」)

これは偉大な作家にたいしてだけではない。そもそも人が何かを強調するとき、たとえば自らの「孤独」を顕揚するとき、実は逆に孤独が堪え難いのだと読んだほうがいい場合が多い。

「自由」だってひょっとしたらそうかもしれない。

ああ、世には、ふいご以上のはたらきをしていない大思想が、なんと多いだろう。それらは、物を吹きふくらませ、その内部をいよいよからっぽにする。

君は自分が自由だというのか? わたしが君にききたいのは、君を支配している思想であって、君がくびきから逃れたということではない。

君はくびきを脱することを許された者であるのか。世には、他者への服従の義務を投げ捨てたことによって、自分のもつ価値の最後の一片を投げ捨ててしまった者が少なくないのだ。

「何かから自由である」ということなど、ツァラトゥストラにはどうでもよいのだ。君の眼が私にはっきり告げるべきことは、何のための自由か」ということなのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「創造者への道」)

で、きみの孤独や自由はなんのためなんだい? ーーとボクはエアリプを送ったっていいさ・・・

自由とは、選択する自由 la liberté du choix があるのを示すことだ。…それは(究極的に)、死への自由である c'est la liberté de mourir. (ラカン、S11)

話を戻せば、神田橋條治の至言がある、《一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ》。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

ーーここにも冒頭の小林秀雄がいるのは明らかだろう。

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)