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2018年6月11日月曜日

エロトスをめぐって

《すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort》(ラカン、E848、1966年)

リビドー libido、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドー。これは、不死の生 vie immortelle、押さえ込むことのできない生 vie irrépressible、いかなる器官 organeも必要としない生、単純化され、壊すことのできない indestructible 生、そういう生の本能である。 (ラカン、S11、20 Mai 1964)
フロイトの「死の欲動」の逆説は、まさに「死」の反対の名であることだ。精神分析内で「不滅性」が現れるあり方の名、生の不気味な過剰の名、生と死の(生物学的)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動の名である。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「ただの生」ではないということである。人間は単に生きているのではない。人間は、過剰のなかの生を享楽する奇妙な欲動にとり憑かれ、突出した剰余・物事の通常の成行きから逸脱した剰余に熱狂的に纏いつかされている。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年、私訳ーー「死の欲動」という「不死の欲動」

一般常識としてのフロイトの「死の欲動」に反する見解を並べたが、これがラカン派による「死の欲動=リビドー」である。さらに言えば、ジジェクも、そしてラカン自身も「欲動一元論」なのである。もっともラカン派内でも異なった見解がある。

だがラカンの見解を追っていくと、すくなくとも次のような逆説に至らざるをえない。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、2005)

ーーポール・バーハウは、ジジェクよりもややフロイトよりに考えているベルギーのラカン派臨床家である。

⋯⋯⋯⋯

そもそもラカン派注釈者たちの見解を読んでも、ラカンの享楽と剰余享楽概念は、フロイトのエロスとタナトスにどう関わるのか、関わるに決まっているのだが、それさえ瞭然としていないように見える。

ただ、享楽はエロスの側にあり、他方、剰余享楽はタナトスの側にあるのは、ほぼ間違いない。欲動一元論(剰余享楽一元論)のラカンは、だから不可能な享楽と言うのである。

タナトスは、フロイトによって「不幸にも」、死の欲動と命名されてしまったが、死とはほとんど何の関係もない。フロイトのエロスとタナトスとは、フロイト自身の記述にもあるように、なによりもまず融合と分離である。

エロスとタナトス…。前者は、現存しているるものをより大きな統一 Einheiten に結合 zusammenzufassen しようと努め、他のものは、この融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen(解体)し、融合によって形成された構造 entstandenen Gebilde を破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937年)
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

死と関係があるのは、むしろエロスのほうである。

「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ところでフロイトは、まだタナトス概念を提出する前の1913年に次のように記している。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)

ーー母なる大地との融合、沈黙の死の女神に抱かれることが、タナトス(タナトス)であるわけはない。エロス(融合)である。

たとえば古井由吉の次の文を人はどう読むべきか。

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)

だれもが知っているように、老齢になれば、死の女神の抱擁が近づくのである。ゆえにエロス感覚が深くなるのである。

この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

ほかにも、たとえば子宮回帰。

誕生とともに、放棄された子宮内生活 Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、すなわち睡眠欲動 Schlaftrieb が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内 Mutterleib への回帰である。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これは死直前のフロイトの記述なので、「睡眠」は文字通りにとらなくてもいいのだが、たとえ文字通り「睡眠」ととったにしろ、それがタナトス(分離)であるわけはない。あれは毎夜訪れるエロス(融合)である。時との、無意識との、夢の臍との融合、そして束の間の穴との融合である。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

現代ラカン派はどのように言っているのか? それほど多くのラカン派がこの問いに明瞭な形で触れているわけではないが、なんとか拾いだした死をめぐる記述は次のようなものである。

死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)
ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接な関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort (Marga Auré, A risque de mort, 2009)
・死は快の最終的形態である。death is the final form of pleasure.

・死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance

(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)
・享楽と死はきわめて接近している Jouissance and death are quite close

・享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)

享楽は不可能だから、剰余享楽が生じる。剰余享楽とは、享楽のまわりの循環運動である。これが、享楽をめぐるラカンの最も基本的思考である、とわたくしは考える。そして、これがラカンの欲動一元論の意味である。すなわち生きている主体には、享楽は不可能であり、究極のエロス(融合)も不可能である。



ーーこの図のよってきたるところと意味は、「「分離タナトス」と「循環タナトス」」を見よ。今は基本部分は飛ばして、次のラカンの発言に依拠して記す。

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。なぜなら大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,S23, 16 Décembre 1975)

上図の左下にある「非関係 non-rapport」と「身体 corps」は、ラカンにとって《大他者の大他者はない》と同じようにȺと記される。Ⱥ、すなわち穴(トラウマ)である(参照:身体は穴である)。

そして上の言説理論(=エロス的つながり理論)の基本図における左上の見せかけsemblant (=仮象)とは、次の意味合いがある。

言説自体、いつも見せかけの言説である。le discours, comme tel, est toujours discours du semblant(ラカン、S19、21 Juin 1972)

ようするに見せかけとは、言語の世界に入ることによって身体と切り離されてしまった人間存在のあり様ということであり、具体的には、言語によって分割された「主体$」のことである。

この前提をもとにして、ラカンの上の斜線を引かれた大他者の享楽 に準拠すれば、上図は次のようにラカンマテームで書きうる。



「見せかけの主体 $」は、穴Ⱥ によって「大他者の享楽 JA」は不可能だから、つまり「斜線を引かれた大他者の享楽」だから、剰余としての対象a が生まれる。これが《享楽の漂流 la dérive de la jouissance》である。そして享楽の漂流とは、死の漂流でもある。

私は(フロイトの)欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

享楽の漂流と死の漂流という表現から、享楽=死はほとんど等価であることがわかるだろう(「漂流 dérive」は「逸脱」とも訳せる。そして"dérive" は英語の"drive" から思いついたという話もある)。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

…………

フロイトには、「欲動混淆 Triebvermischung」という概念がある。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

さきほど剰余享楽は、タナトスの側にある概念としたが、実際はエロス欲動とタナトス欲動、つまり融合欲動と分離欲動のカクテルとしたほうがより正しい、という立場をわたくしは取る。この意味で、経験論者としての「亀裸曼」荒木経惟の造語「エロトス」は、彼がどのようにこの語を使っているかは別にして、とてもフロイト的概念であり、まさに「欲動混淆」である。

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

よりわかりやすい具体的な注釈を掲げよう。

エロスとタナトスは切り離された欲動ではない。…一方の傾向が支配的になればなるほど、他方も同様に強くなる。統一化されたヨーロッパが実現すればするほど、ナショナリズムや分権主義の傾向が強くなる。(Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

さらに柄谷行人の日本の朝鮮半島支配をめぐる、きわめてすぐれたエロス論を掲げる。

日本の植民地政策の特徴の一つは、被支配者を支配者である日本人と同一的なものとして見ることである。それは、「日朝同祖論」のように実体的な血の同一性に向かう場合もあれば、「八紘一宇」というような精神的な同一性に向かう場合もある。このことは、イギリスやフランスの植民地政策が、それぞれ違いながらも、あくまで支配者と被支配者の区別を保存したのとは対照的である。日本の帝国主義者は、そうした解釈によって、彼らの支配を、西洋の植民地主義支配と対立しアジアを解放するものであると合理化していた。むろん、やっていることは基本的に同じである。だが、支配を愛とみなすような「同一性」のイデオロギーは、かえって、被支配者に不分明な憎悪を生み出すこと、そして、支配した者に過去を忘却させてしまうことに注意すべきである。(柄谷行人「日本植民地主義の起源」『岩波講座近代と植民地4』月報1993.3初出『ヒュ―モアとしての唯物論』所収)

ーーここで、上に引用したラカンの発言、《エロスの本質 essence de l'Éros ⋯⋯融合 fusion という本質、(だが)一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかない》を思い起こしておこう。

最後にふたたび、わたくしが依拠することの多い、ポール・バーハウの注釈を掲げる。

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳)