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2018年6月7日木曜日

「享楽の図」再考

もう三年ほどまえになるが、「ラカンの享楽の図とフロイトの三人の女」という投稿をしている。この数日、この記事へのアクセスがすこしあって、そのなかのひとりの方から質問を頂いた。よい機会なので、ここで「享楽の図」について、もう一度(簡略だが)整理してみる。

三年前次の図を掲げている。




【用語について】

まず用語だが、〈他者〉の享楽は、現在のわたくしは「他の享楽」、ファルスの享楽は「ファルス享楽」と訳し変えている。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

上の文の「jouissance de l'Autre 」は、次の文の「他の享楽 autre jouissance」と等価である。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

最も基本的には、"jouissance de l'Autre "を「大他者の享楽」と訳してしまうと、異なった意味をもつ《欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre》というときの「大他者」と混同してしまうために「他の享楽」と訳している(英語圏の注釈者のなかにはanother jouissanceと訳す方さえいて、つまりはファルス享楽とは別の享楽という意味である)。

※いくらかもう少し詳しくは、ラカンの「大他者の享楽」を参照のこと。


【享楽の図について】

次に享楽の図自体についてである。

Patrick VALAS版(ラカンのセミネール聴き取り版)のセミネール20「アンコール」の「旧版」には次の図がある。




この図は、一般的に「享楽の図」と呼ばれてきたものだが、ラカンの名高い「性別化の式」の提示の次の週に掲げられているにもかかわらず、ラカン注釈者たちによって触れられることがひどく少ない図である。

なぜか? おそらくボロメオ結びの図とマテームの位置が合致せず理解に苦しむためではないかとわたくしは憶測する。

たとえば上の享楽の図においては、現実界R と想像界 I のあいだにファルス Φがおかれている。だがボロメオ結びにおいては、現実界R と象徴界S のあいだにΦ(JΦ:ファルス享楽)がある。





これを、いまでも明瞭に説明しているラカン注釈者は、わたくしの知る限りいない。

もっともJsについては、ミレールが対象a(見せかけとしての対象a)と等価だとしている。

アンコールSéminaire XXにおいて、対象a は、…意味の享楽である。幻想のなかに刻印される意味の享楽である。petit a c'est encore un sens-joui, c'est encore un sens-joui inscrit dans le fantasme. (Fin du Cours XX de Jacques-Alain Miller du 6 juin 2001 )


ところでPatrick VALASは、「アンコール」の「新版」で、上の「享楽の図」を次のように書き直している。




この図において、想像界から縦の矢印が見せかけとしての対象aに向けられている。

とすれば論理的にそれぞれ三界から矢印が向けられていい筈である。





このように記してはじめて、ボロメオ結びの図のマテームポジションとの相同性が見えてくる(享楽の図の提示のあとに提示されたボロメオ図の成り立ちから考えてこの矢印は何の不思議でもない)。


【対象aの両義性】

だがここでもうひとつ厄介なのは、ボロメオ図の中心にある「a」と、享楽の図における「見せかけ semblant」としての「a」である。

この二つのaの相違が分からないと、享楽の図とボロメオの図の相関性は読み解けない。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する穴としての対象a、そしてこの穴埋めをする人を魅惑要素としての対象aがある。…したがって人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」・アガルマが覆っている穴を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf)

ジジェクが言っているように対象aは、穴としての対象a と見せかけとしての対象aがある。

ジジェクの言っている内容は、ラカンの次の文が裏付ける。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


【ボロメオ図の真ん中にある、穴としての「a」】 

そして、ボロメオの環にある真中のaは、穴Ⱥとしての「a」だと捉えうる。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

これは現在ラカン派では一般化排除の穴Ⱥとも表現される。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018、pdf)

一般化排除の穴 trou de la forclusion généraliséeとは何か。《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018


【享楽の図の真ん中にある「J」=Ⱥ】

他方、享楽の図の真ん中にある「」とは、 不可能な享楽であり、本来、「斜線を引かれたJ/」である。

とすれば、これをȺ とも原対象a(永遠に喪われた対象)とも書けるとわたくしは思う(すなわち J=Ⱥ=a)。

すなわち、




【ボロメオ図の真ん中の「a」=Ⱥ】

そして、上に記したように J = Ⱥ = a とすれば、ボロメオ図自体、次のように書ける。





この図の意味するところは、トラウマ的穴Ⱥに対する三種類の防衛(穴埋め)である。

我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )

三種類の防衛とは、厳密さを期さずにいえば、おそらく次のように言える。

・jouissance phallique ファルス享楽 JΦは、神経症的防衛
・jouissance de l'Autre 他の享楽JȺは、精神病的防衛
・jouis-sens 意味の享楽Jsは、倒錯的防衛


享楽の図においても、JȺ=S(Ⱥ)であり、さらに剰余享楽=意味の享楽とすれば、同じことがいえる。

なお、女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールは最近の書で次のように言っている。

Lacan includes three of them in the Borromean knot: joui-sens (the enjoyment of meaning), which is the most intellectual and brings into play the imaginary related to the body (l'imaginaire du corps) and the representations that are attached to it; phallic jouissance, which is outside of the body, and which is shaped by the signifier and fragmented just like the signifier, running from the jouissance of the organ to every form of power; and lastly, the Other's jouissance, which is outside of the symbolic that is, not colonized by language but not outside of the imaginary (Colette Soler 2015, Lacanian Affects)

意味の享楽 joui-sensは、《身体の想像界 l'imaginaire du corps 》にかかわる、とあるが、とすれば、想像的ファルスの享楽 (大きなファルスФではなく、小さなファルス φ の享楽)とすることができるのではなかろうか。

もしこの想定が正しければ、ボロメオ図は次のようにさえ記せる。




以上。