これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…
心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび諸科学(人間学 Wissenschaften)の女王として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』23番ーー既存訳に依拠するがいくらか変更)
ボクも巷間の「心理学」をバカにすることはしばしばあるけれど、ニーチェのいう心理学、ーーフロイトのいうメタ心理学ーーをバカにするヤツはゼロだよ。オタンコナスのカボチャ頭だな。
私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…。どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の本能 l'instinct de mort と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズムmasochisme primordial de la jouissance …。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン, S13, L’objet de la psychanalyse, inédit)
三種類の機械⋯⋯それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)
・エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。
・⋯⋯「暗き先触れ précurseur sombre」の活動のおかげで、システムのうちに生起するもの、つまり共鳴し合う諸々の系列のあいだで生起するものが、〈聖体顕現(エピファニー épiphanie)〉と呼ばれる。そして宇宙的な cosmique 拡がりは、ある種の強制された運動が大きく増幅されること l'amplitude d'un mouvement forcé と一体をなしている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
スピノザだってそうだ。
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9)
Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,
現在、「衝動 appetitus」と triebと訳されることが多い。すなわち「欲動」である。
たとえば注釈者たちによって次のように記述される
・Körper Trieb (appetitus)
・Appetitus ist Trieb
よって、精神と身体とに関係する「欲動 appetitus」、その《欲動とは人間の本質に他ならない》とすることができる。
力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)
クロソウスキーは、力への意志は欲動と相同的だとしている。
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。
・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
ドゥルーズもこう記してる。
力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)