次は、1930年の作品。
どちらが先行して制作されたのかはわからないが、わたくしは、すぐさまジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」(1930)を想い起した。
(Alberto Giacometti - Boule suspendue (Suspended Ball) 1930-1931) |
1930 年代にアルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)がパリで制作した彫刻作品の多くは、当時の芸術家達との関わりから、「シュルレアリスム期」として位置づけられる。中でも 30 年 4 月に発表 された『吊るされた球』(Boule suspendue 1930-31)は、後にブルトンによって買い上げられ、彼の死までアトリエの壁の中央に置かれていた。また、ダリがこの作品を「象徴的作用のためのオブジェ」 と呼び、「欲望とエロティックな幻想を引き出す」と表現したことにより、当時のシュルレアリスト達のフロイト的な見方を助長することになった。(藤本玲「アルベルト・ジャコメッティにおける「宙吊り」の問題」、pdf)
ジャコメッティは娼婦以外はインポテの時期があった。
娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)
とはいえ、アレはどの男にとって怖いのである。いわゆる魅惑と戦慄である。宙吊りの玉 Boule suspendue はヴァギナデンタータ Vagina dentata にきまっているのである。
宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………
社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………
自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」ーー縄文ヴァギナデンタータ)
美、それは《恐るべきものの始まり》(リルケ、ドゥイノ)であり、《触るなかれ! beau : ne touchez-pas 》(ラカン)である。
美は、欲望の宙吊り suspendre・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。
…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7)
オッカサマが恐いとヴァギナデンタータはよりいっそう怖くなるのである(参照「ジャコメッティと女たち」)
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り食おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret
信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っています。それはあなたがたも知っているとおりです。(『ベトロの手紙,五八』)
ラカンの名高い鰐の口は、もちろんこのペテロの手紙が起源である。
ーー《ラカンの母は quaerens quem devoret と一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として》(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)
精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。
これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?
巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である
やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。
シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
(Alberto Giacometti's Woman with Her Throat Cut ,1932) |
ーージャコメッティが、この作品の真の名を隠蔽したのは歴然としている・・・
構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねに fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ1995, Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL1995)
女たちとは、遠くから眺めるのが一番である。