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2017年10月20日金曜日

すべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうる

一人しかいない筈の子供について、《私の女房は前夫との間に二人の子供がある》等々と書いた安吾(1950年)は妄想期だったのかな、とふと考えた。

もう大分以前から彼は人に逢いたがらなかったのだが、私も彼を人に逢わせたくなかった。あさましい位、彼の外貌は変り果ててゆき、人の言葉をまともに聞くことはなくなった。すべては陰謀としか思えないらしく、私がそのあやまりを正すと悪鬼の如く、いかりたけると云うふうになり、当時の女中さんのしいちゃんは私の手下で、私としいちゃんとはしじゅぅ陰謀をはかり奸計をめぐらしていると云うふうにとるようになった。私が彼に出来ることは、彼の云いなりになると云うこと以外には何もない。
読まれない新聞が、彼の枕元にうず高くつまれ、ふと気がついて、彼がその新聞をとりあげ、片目をつぶり、日付を見て、こんなはずはないと云い出す。誰々が来て、それから三十分ほどねむっただけなのに、あれからもう一週間もたっていると云う法はないと云い出すのだった。新聞の日付迄、私や女中が按配すると思い込んだりした。(坂口三千代『クラクラ日記』)

冒頭の文章が書かれている安吾の『我が人生観 (一)生れなかった子供』(1950年)は精神病院入院前だったのか、とwikiを眺めてみると、1949年(昭和24年)2月23日に 東京大学医学部附属病院神経科に入院し、4月に自主退院しているようだ。だが1950年にも中毒症状の発作を起こしている、とは記されている。

ーーということはどうでもよくなり、wikiの坂口安吾の項で、三島由紀夫のとても美しい文章に出会った。

坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だつた。坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。なぜだらう。余計なものがなく、ガランとしてゐて、空つ風が吹きとほつて、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、夢のやうに明るい丸い遠景の光りが浮かんでゐる。この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかつた。未来まで、この人はトンネルのやうな体ごと、スポンと抜けてゐたからだ。太宰が甘口の酒とすれば、坂口はジンだ。ウォッカだ。純粋なアルコホル分はこちらのはうにあるのである。(三島由紀夫「内容見本」(『坂口安吾全集』推薦文))

いやあじつに美しい。これでいいのである、ひとはこういう風に安吾を読んだらいいのである。風が吹きとおる、そして向こうの路地奥から光が差してくる。そしてそこに「柿の木」がみえたらいいのだ。

路地を通り抜ける時試に立止って向うを見れば、此方は差迫る両側の建物に日を遮られて湿っぽく薄暗くなっている間から、彼方遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに賑かそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。(永井荷風『日和下駄)』

谷川俊太郎は、散文をバカにして「柿の木」を語っているが、荷風の随筆や安吾の短編による「柿の木」だってとってもいいさ。

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

ーー谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」  

とはいえわたくしの場合は、向こうにあるのは《ガランとしてゐて、空つ風が吹きとほつて》という具合にはいかず、古い屋敷の庭にあった、重苦しい「樟の木のざわめき」なんだが。


ここで、わたくしの好きな、《すべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうる》とするフーコーの文をも掲げておこう。

私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物 objets としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた,芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かしました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。なぜ,ひとつの画布あるいは家は芸術の対象 objets であって、私たちの生はそうではないのでしょうか。 (Michel Foucault (1984) , ≪À propos de la généalogie de l'éthique : un aperçu du travail en cours ≫,(1994) DITS ET ECRITS, TomeⅣ, p.617(守中高明訳(2002) , 「倫理の系譜学について─進行中の作業の概要」 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅹ』)

安吾の『続堕落論』には、こう書かれている。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。

「堕落」などという語を使わないまでも、個人のの生が「芸術作品」 でありうるのは、まずなによりも、この「善人」から逃れることではあろう。