前回、いささか格調を落とした投稿をしてしまったので、アワテテ在庫ノ中カラ、格調高い投稿を抜き出して、誤解を振り払うことにする。
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ラカンのテーゼである「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス、2010、Jean-Bertrand Pontalis, En marge des nuits)
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◆「歩く女 Femme qui marche」(1932年、下のものは1936年ヴァージョン)
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。
L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou.(ラカン, Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974)
◆「宙吊りになった玉 Boule suspendue」(1930-1931)+「見えないオブジェ L'Objet invisible」(1935)
1930 年代にアルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)がパリで制作した彫刻作品の多くは、当時の芸術家達との関わりから、「シュルレアリスム期」として位置づけられる。中でも 30 年 4 月に発表 された『吊るされた球』(Boule suspendue 1930-31)は、後にブルトンによって買い上げられ、彼の死までアトリエの壁の中央に置かれていた。また、ダリがこの作品を「象徴的作用のためのオブジェ」 と呼び、「欲望とエロティックな幻想を引き出す」と表現したことにより、当時のシュルレアリスト達のフロイト的な見方を助長することになった。(藤本玲「アルベルト・ジャコメッティにおける「宙吊り」の問題」、ーー《触るなかれ!》)
◆「不快なオブジェ Objet désagréable 1931」、「捨て去られるべき不快なオブジェObjet désagréable à jeter 1931」、「男と女Homme et femme 1928」、「宙吊りになった玉 Boule suspendue 1931」