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2015年9月15日火曜日

で、どうおもう、〈あなた〉は?

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)

…………

小田実bot ‏@odamakoto_bot

デモやってると、警官が出てきて怒鳴りまくるやろ。「何ぬかすか、アホ!」ってこっちも言ってやる。そうすると恐怖も共有するし感動も共有する。精神が躍動するでしょう。しかも歩いとるんだから、いちばん健康にいいというのが私の説なんです(笑)。『小田実の世直し大学』2001

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)
人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」((ニーチェ『権力への意志』「第三書 原佑訳)

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』)
義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』) 

小田実の「精神が躍動する」とは攻撃欲動、権力への意志の発散と言い換えてもいいんじゃないかい?

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)


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東浩紀 ‏@hazuma

言葉がなくても酒飲めばわかりあえる、肩組んでビースとか言っているひとがもっとも危険で、戦争に行ったらばんばん人殺すひとに生まれ変わるというのは自明で、そして近代社会というのはそういうひとの勝手にさせないために面倒な仕組みを作っている世界なので、ぼくはその点では徹底して近代人です。(2015.9.15)

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。しかしその悪癖がいまでは、群れを破壊へ導きかねない。たったひとりの気紛れが全体の、永遠にも似た忍耐をいきなり破る。(古井由吉『哀原』女人)
@yoshimichi_bot: 私が数を背景にした集団行動を嫌う理由は、集団行動は原理的に醜いから、原理的に不正だから、原理的に悪だからである。それは一時的な戦術であるにせよ、自分たちは完全に正しいという姿勢をとる。相手は完全にまちがっているという単純な二元論を演技する。『日本人を<半分>降りる』中島義道
@yoshimichi_bot: 考えない者の強さ、考えることができない者の強さ、しかもそれでヨシとしている者の強さ、「俺、バカだから」と居直る者の強さは、筋金入りの強さである。まさにニーチェの語るごとく「悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝る害悪はない」。『エゴイスト入門』中島義道
……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)


…………

権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」と(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

オレかい? オレの見解は、戦争法案反対というのは「論理的には」難民受け入れデモにつながるはずというものだ。彼らが「賤民」でないならね(参照:「おまえらおれたちばかりにやらせるなよ すこしは世界の警察官の仕事手伝ってくれ」)。


東浩紀@hazuma
難民受け入れを求めるデモってあるのかしら。戦争反対デモには乗れないが、難民受け入れデモなら参加できそうな気がする。(2015.9.05)

ーーたまたま東浩紀氏のツイートをふたつも掲げてしまったが、わたくしは彼のファンでもなんでもない、ただし「地頭は最高の人」(鈴木健)かも知れないとは思う。すくなくともそのあたりの「学者」よりはずっとましだ。

二つも続けて引用した「反動」のために次ぎの文を掲げておく誘惑から逃れられない。

たとえば東浩紀氏が書いたものがわたしの心に響いてこないのは、それがカタログ的な知から構成されているように見えるからです。基本にあるのはジャック・デリダや量子力学の名を借りた思想カタログもしくは思想フィクショ ンです。実際に砂漠のなかを歩いたか、ジャングルのなかを歩いたか、実際に異国の地で何年も過ごしたか、という ような、生身の体験や根源的な危機感が感じられない。自らは安全な場所に身を置いて、頭の中で順列組み合わせで 知識を再構成している。厳しい言い方をすれば、人も羨むエリート大学卒業生が書斎で捏造した小賢しいフィクショ ンです。迷える子羊たちはその人の言うことについてさえ行けば何とかなると思ってしまう。(藤田博史『セミネール断章』 2011年12月


で話を戻せば、あの敬すべきデモ参加の人たちが難民デモがあった場合に果たして十分の一でも居残るだろうかについて思いを馳せるね、--さてどうだろう?

いずれにせよ、こうだ。

……みなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。 われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸

デモぐらい行けよ、だがデモの熱狂を疑えよ、そういうことだ。

街頭でのデモ(示威行進)は古い、という人たちがいる。また、インターネットなどの普及で、 さまざまな抗議の手段が増えたという人たちがいる。しかし、市街戦や武装デモは古いが、 古典的なデモは今も、西洋やアジアで存在している。いかに非能率的に見えようと、それ はやはり効果がある。というより、丸山真男や久野収が強調したように、民主主義は代表 議会制度だけでは機能しない。デモのような直接行動が不可欠なのである。 ところが、日本にはデモがない。それはインターネットなどのせいではない。たとえば、韓 国ではインターネットはデモの宣伝や連絡手段として役立っているが、日本ではむしろそ の逆である。人々はウェブ上に意見を書き込んだだけで、すでに何か行動した気になっているのである。(柄谷行人 丸山真男とアソシエーショニズム (2006))

ーーで、2011年を経て、デモが真っ盛りになってしまったが、それが《国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか》(中井久夫)でないかどうか疑うことを忘れてはならない、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》だけではないか、と。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

…………

※附記

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

◆ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より。

……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(私訳)
註)フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。


ジジェクは《フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる》としているが、フロイトは次のように書いてもいる。《集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある》。

集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


再び『LESS THAN NOTHING』より。

われわれはフロイトの立場に少なくとも三つの点を付け加えるべきだ。第一に、フロイトは人為的集団の教会モデルと軍隊モデルのはっきりした区別をしていない。“教会”はヒエラルキー的な社会秩序を表わし、平和と均衡を必要にせまられた妥協をもって維持しようとする。“軍隊”は、平等主義の集団を表わし、内的なヒエラルキーによって定義されるのではなく、彼らを破壊しようとする敵への対抗勢力として定義される。――ラディカルな解放運動は、常に軍隊がモデルであり、決して教会ではない。千年至福の教会millenarian churchesは実のところ軍隊のように組織されている。第二に、“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。最後に挙げるがけっして重要性に劣るわけでないものとして、そもそも野性的な暴徒とは、本当に社会的つながりの野放しのゼロ度なのだろうか? むしろ社会組織に及ぶギャップもしくは非一貫性への自制心を失った反動なのではないか。暴徒の暴力は、定義上、社会的ギャップの外部の原因として、(誤)認知された対象に向かう(たとえば、ユダヤ人)。まるでその対象が破壊されれば社会的ギャップが廃棄されるかのようにして。



2015年6月29日月曜日

野間易通対川上量生(東浩紀による)

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

…………

東浩紀氏が次ぎのようにツイートしている(2015.6.29.16:00前後)

@hazuma: 言語行為論で有名な区別に「事実確認的 constavive」と「行為遂行的 performative」というのがある。ぼくの読者だったら知っていることだろう。ツイートしやすくするため以下C型P型と呼称する。

@hazuma: たとえばAさんがBさんに「あなたの仕事、なんの意味があるんですか?」と尋ねたとする。事実確認的には単に意義を尋ねたにすぎない。けれど多くの場合、行為遂行的には「あなたの仕事意味ないと思うんすけど」という軽蔑を含む。そしてある文章をどちらで解釈すべきかは、形式的には決定できない。

@hazuma: ある命題がC型であるかP型であるかは、形式的な解析では決して決定できない。20世紀に哲学者や論理学者や言語学者や記号論者や社会学者は、この決定不可能性についてさまざまなかたちで分析している。とりあえず、このことは基礎的な常識として押さえておいてほしい。

@hazuma: というわけで、すべての命題は行為遂行的な読みに開かれている。つまり意味は確定しない。とはいえそれではコミュニケーションに支障が出るので、社会は「あらゆる命題を事実確認的にしか受け取らない」領域をいくつか作っている。たとえば学会はその一つだ。論文はベタにマジに読むことになっている。

@hazuma: さて、このうえで昨今話題の文系理系論争について呟くと、ぼくにはそれは、文系脳理系脳などという不毛な話ではなく、どちらかというと、ある命題を事実遂行的にとるか行為遂行的にとるかの解釈の水準、というよりも「解釈を安定させる社会的装置についての理解」が混乱しているためのように思われる。

@hazuma: つまりは、こうだ。川上さんは、対話とは合理的で論理的な意見交換であるべきだから、命題の解釈を事実確認的水準に限定したうえで行わなければいけないと考えている。ひらたくいえば、学会の質疑応答のようなものとして対話を考えている。このような理解のひとは、確かに「理系」のひとには多い。

@hazuma: しかし他方、野間さんは、ある特定の解釈の水準を標準的だと決定する、その「規則設定の暴力」こそを問うべきだと考えている。これはこれで、ベンヤミンの『暴力批判論』以来さんざん言われていることで、「文系」的には古典的な立場である。それゆえ野間さんは対話を行為遂行論的に展開しようとする。

@hazuma: というわけでなにが起きるかというと、川上さんと野間さんでは、相互の命題についての解釈の水準がきれいにすれ違うことになる。川上さんが事実確認的に述べたことを、野間さんは行為遂行論的に受け取る。逆に野間さんが行為遂行論的に述べたことを、川上さんは事実確認的に受け取る。

@hazuma: 事実確認論/行為遂行論の区別は、しばしば正誤(認識論)と善悪(倫理)の区別にも重ねられる。ぼくの考えでは、川上さんの「在特会もカウンターもどっちもどっち」はC的には正しいがP的には悪に近い。逆に野間さんの「オタクはキモい」はP的には有効性をもつかもしれないがC的には無意味だ。

@hazuma: 以上、ぼくなりに10日前の騒動について考えた。いずれにせよ、同じ「対話」という言葉で、「理系」は学会的な事実確認的命題の交換をイメージし、「文系」はもっと無秩序な行為遂行的命題のバトルをイメージすることが多いというのはあると思うので、まずはそこを整理すべきかと思います。

@hazuma: ちなみに追記だけど、いまたまたま読んでいるミハイル・バフチンは、まさに、対話を、事実遂行的な命題の交換ではなく、行為遂行的な命題のバトルとして考えたひとでした。ぼく的にはやっぱこっちのほうがしっくり来るんだけど、これ人文書に親しんでいないとわかりにくい考え方かもね。

@hazuma: ちなみに、参考図書をぼくの得意分野で挙げておくと、言語行為論では、J・L・オースティン、ジョン・サール、そしてサールとデリダの論争が必読。そこにベイトソンのダブルバインド論を加えればだいたいオッケーで、あと応用でバフチンのポリフォニー論とかフーコーのパイプの論文とかかしら。

すばらしいまとめである。「すばらしい」と書いたが、わたくし自身ほとんど忘れてしまっているので、つまりはとても勉強になる、ということだ(忘れてしまっている、すなわち元からたいして分かっていたわけではないということだ・・・)。

ところで、 「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」とは、ラカンの 言表内容enonceと言表行為enonciation とどう異なるのか(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)

この「内容」が言表内容であり、その「内容にどう関わっているか」が言表行為である。

 「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」とは、究極的には、このフロイト・ラカン派のこの考え方に行き着くのではないか、--と、たいして分かっているわけではないわたくしが「厚顔無恥」にも書いてしまうのは、「行為遂行的」、あるいは「言表行為」としては何を示しているのだろう? たぶん、とりあえずは「知ったかぶり」をしたいということはあるに相違ないが、それ以外にも何かあるはずだ・・・

(いずれにしろ、 「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」と言表内容enonce/言表行為enonciation とはなにか違うところがあるはずだが、それが分からないほどの「知識」しかない、ということではあるし、いまは調べる気はしない)。

ーーなどとややこしい話はここで打ち切りにする。

今はロラン・バルトの平易な言葉を、ーーいささか本来の文脈からはずれる箇所はあるかもしれないがーー引用しておくだけにする。

対話者同士の定期的な会合から期待し得るものはただ好意だけである。すなわち、この会合が攻撃的な所を除去したパロールの空間を代表するということである。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

だが、〈あなた〉は、攻撃性の除去など容易ではないことを知っている。すくなくとも、この除去は抵抗なしには行なわれない。

第一の抵抗は文化の範疇に属する。暴力の拒否はヒューマニスト的な嘘とみなされる。慇懃さ(このような拒否の小型版)は階級的価値とみなされる。愛想のよさは鷹揚な対話に似た瞞着とみなされる。

第二の抵抗は想像界の範疇に属する。多くの者は、対決からの逃避は欲求不満を招くというので、鬱憤晴らしの闘争的パロールを願っている。

第三の抵抗は、政治の範疇に属する。論争は戦いの基本的な武器である。パロールの空間は、どれも、分裂して、その矛盾をあらわにしなければならない、監視の下に曝されなければならない、というのである。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

そう、〈あなた〉はうわべの慇懃さ、愛想のよさに吐気を催し、鬱憤晴らしの闘争的パロールを願っている、《私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。》(中井久夫『「踏み越え」について』)

質問とはあることを知りたいと思うことである。しかし、多くの知的論争においては、講演者の発表に続く質問は欠如の表明ではなく、充実の確認である。質問という口実で、弁士にけんかを仕掛けるのだ。質問とは、その場合、警察的な意味を持つ。すなわち、質問とは訊問である。しかし、訊問される者は、質問の意図にではなく、その字面に答えるふりをしなければならない。その時、ひとつの遊戯が成立する。各人は、相手の意図についてどう考えるべきか、わかっていても、遊戯は、真意にではなく、内容に答えることを強制する。誰かが、さりげなく、《言語学は何の役に立つのですか》と、私に質問したとする。それは、私に対して、言語学は何の役にも立たないといおうとしているのだが、私は、《これこれの役に立ちます》と、素直に答えるふりをしなければならない。対話の真意に従って、《どうしてあなたは私を攻撃するのですか》などといってはならない。私が受け取るのは共示〔コノタシオン〕であり、私が返さなければならないのは外示〔デノタシオン〕である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)

…………

※附記

学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言うことである。だからもし私が同僚に向かって正直に「退屈でつまらなかった」と言ったりしたら、当然ながら彼は驚いて言うだろう。「でも、もし退屈でつまらないと思ったなら、面白かったといえばいいじゃないか」。

不幸な同僚は正しく見抜いたのだーーこの率直な言明には何かそれ以上のものが含まれている、そこには自分の論文の質に関するコメントだけでなく、自分の人格そのものに対する攻撃が含まれているにちがいない、と。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
よく定義されたことばをつかって書くことは およそ論議のなされるための原則と言えるだろう このこと自体がすでに 語り尽くすことができないものを わかったように語るという罠にかかっている ひとつのことばが厳密に定義できるなら それは意味するものとしての記号にすぎないだろう 世界のかわりにそれをあらわす記号を操作しても 無限を有限で置きかえるこの操作からのアプローチは 逆に無限回の操作を要求することになる 推論はかならず反論をよび 論理の経済どころか ことばは無限に増殖する(現代から伝統へ  高橋悠治

「葛藤」や「無秩序」への私の執着は、言語をめぐるごく単純な原則に由来している。それは、ある定義しがたい概念について、大多数の人間があらかじめ同じ解釈を共有しあってはならないという原則にほかならない。とりわけ、文学においては、多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する概念こそ、真に創造的なものだと私は考えている。そうした創造的な不一致を通過することがないかぎり、「平和」の概念もまた、抽象的なものにとどまるしかあるまい。(蓮實重彦「「『赤』の誘惑」をめぐって」)

※「事実確認的 constavive」/「行為遂行的 performative」のいくらかの参照として→「エクリチュールとフィクション



2015年1月16日金曜日

聾者の国Deaf Nation、あるいはポリティカルコレクトネス

まず、ポリティカルコレクトネスの行き過ぎを説く文脈で書かれている「聾者の国Deaf Nation」をめぐるジジェクの文を掲げる。

聾者の国Deaf Nationの事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性separatenessであることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義Oralismと呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London 2009)

こういったわけで、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義Oralismの犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。 この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に行くことを想像すればよい。もし聾者の国Deaf Nationがあるなら、どうして盲者の国Blind Nationが必要ないわけがあろう、視覚偏重主義の圧制と闘うための。どうしてデブの国Fat Nationが必要でないわけがあろう、健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して。どうして愚か者の国Stupid Nationが必要でないわけがあろう、アカデミックな圧力に残忍に抑圧された。……(ジジェク『LESS THAN NOTHING』 2012 私意訳)

マイノリティ擁護の話は突き詰めていけばこういった話になってしまうのではないか。またマイノリティ側の視線は、場合によっては、《悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある》(ヘーゲル)の眼差しでさえありうる。

批評家・編集者である東浩紀氏が昨年の年末にツイートして一部で物議を醸した発言、《ぼくがあの問題でもっとも考えてしまったのは、写真の倫理云々というよりは、セックスワーカーという「最強の弱者」が今後言論界で果たす役割の厄介さですかね》、これも、上のポリティカル・コレクトネスの文脈にあるはずだ。

要するに、社会的通念としての「階層」秩序の下位に属するものであればあるほど、その権利を尊重しなくてはならない、と捉えうるだろう考え方、ーー巷間に猖獗するその一見「正しい」態度ーーを揶揄しているのが、「最強の弱者」発言に相違ない。

この考え方というのは、あたかも庶民的正義派のコンセンサスかのようであり、そこには「疚しい良心の裏返し」(後述)のようなものがしばしばあるのではないか。また弱者の側に立つこと、弱者との同一視は、われわれの荷を軽くしてくれ、われわれの加害者的側面を一時忘れさせ、われわれを「正義」の側に立たせてくれるに相違ない。

それはパターナリズムといってもよい。「虐げられているかわいそうな弱者を守ってやる」という厚顔無恥な「思い上がり」が滲みでるなどということがありはしないか。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面“pro-feminist” PC surfaceをちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)


もうひとつジジェクの挙げる例を提示しよう。

最近アメリカのいくつかの集団で再浮上してきたある提案(……)。その提案とは、屍姦愛好者(屍体との性交を好む者)の権利を「再考」すべきだという提案である。屍体性交の権利がどうして奪われなくてはならないのか。現在人々は、突然死したときに自分の臓器が医学的目的に使われることを許諾する。それと同じように、自分の死体が屍体愛好者に与えられるのを許諾することが許されてもいいのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p172)

半世紀ほど前はーーいや半世紀まで遡らなくてもーー、ホモセクシャル、あるいは、たとえばフェラチオでさえひどい性的倒錯と見なされていたわけであり、それは今ではごく普通にーー少なくとも先進諸国ではーー許容されるようになりつつあるといってよいだろう。「大人のおもちゃ」ショップも、路地裏から表通りに進出しつつある。であるなら、どうして屍姦愛好、すなわちネクロフィリア(necrophilia)が、近い将来、許容されないと断言できるだろう。死体から臓器移植するのとなんの変わりがあるのか。

ほかにも、暴力を受けないとオーガズムがえられない女性たちがいる、--のであるなら、「レイプの国」運動があってどうして奇妙だというのだろう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、不在だと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”ーー「レイプファンタジーの統計調査」より)

…………

上に庶民的正義派のコンセンサス、あるいはパターナリズムをめぐって記したとき、「疚しい良心の裏返し」との言葉を使ったのは、下記の意味合いである。

浅田彰)アメリカの状況は…有色人種や先住民族、女性、同性愛者、その他、何にせよマイノリティの側に立って、従来の多数派による抑圧を逆転してゆくことが「政治的に正しい」(politically correct――略してPC)という主張が、数年前から知的階層において支配的になってきている。(……)アメリカは粗野なレイシズムやセクシズムが根強く残っており、それとの対抗関係でPCが大きな社会的役割を果たし得ることは事実ですから、私はPCを一方的に批判しようとは思いません。にもかかわらず、PCが白人プチプル男性のやましい良心の裏返しの表現であることも否定しがたいと思うのですが。

ジジェク)PCの問題とは、端的に言って、「白人・男性・異性愛者でありながら曇りのない良心を保持するのはどうすればいいか」ということです。他のどんな立場の人間も、自らの固有性を主張し、固有の享楽を追及することができる。白人・男性・異性愛者の立場だけが空っぽであり、かれらだけが享楽を犠牲にしなければならない。これは神経症的強迫の典型です。問題は、それが過度に厳格であることではなく、十分に厳格ではないということです。見たところ、PC的態度は、レイシズムやセクシズムを連想させるすべてを断念する極端な自己犠牲のように見える。しかしそれは、自己犠牲という尊敬すべき行為そのものを、その行為をあえて引き受ける良心的な主体性そのものを、犠牲にしようとはしない。罪深い内容のすべてを断念することによって、それは白人・男性・異性愛者の立場を普遍的な主体性の形式として確保するのです。これはヘーゲルが禁欲主義批判において言っている通りです。PC主義者は、初期のキリスト教の聖人のように、自分の内なる罪をあくことなく暴き立てようとする。かれらが本当に恐れているのは、その探求がどこかで終わり、問題が解消されてしまうことなのです。言い換えれば、PC的態度は、アラン・ブルームらの言うように六八年以後の極左主義の偽装された現れであるどころか、ブルジョワ自由主義を守るイデオロギーの盾にほかなりません。

ちなみに、精神分析的に言えば、アメリカ人の強迫的なPC妄想に対して、ヨーロッパの古典的知識人のヒステリー的な問いを対置することができるでしょう。「私が曇りのない良心をもって従うことのできる正当な権力はどれか」という問いです。かれらは自分たちのアドヴァイスを聞き入れてくれる「良き主人」を探している。しかし、自分たちの側が勝利するたびに、「これは自分たちが本当に望んでいたものじゃない!」というヒステリー的な反応を示す。社会党が政権をとったときのフランスの左翼知識人の反応はその典型です。

浅田)あなたの精神分析的な診断は、そのアイロニカルな倍音も含めて、最終的には正しいと思います。ただ、重ねて強調したおきたいのは、PCならPCが、レイシズムはセクシズムが潜在的に広がっているアメリカの文脈においては、それなりの社会的役割を果たし得るということです。むしろ、私たちが認識すべきなのは、具体的な文脈によって、一見リベラルな立場が正反対の効果をもらたし得るし、逆もまた真であるということ、あらゆる局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などあり得ないということでしょう。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993『「歴史の終わり」と世紀末の世界』)

この対話文の最後に、《私たちが認識すべきなのは、具体的な文脈によって、一見リベラルな立場が正反対の効果をもらたし得るし、逆もまた真であるということ、あらゆる局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などあり得ないということでしょう》とあるが、この態度は、悪くすれば「相対主義」との批判に遭遇しかねないとはいえ、実際のところはなかなか捨てがたい姿勢ーーとくに「インテリ」として振舞いたければーーだろう。

次ぎの東浩紀氏のツイートも、《局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などはあり得ない》ことを語っている。

東浩紀@hazuma: なにがヘイトでなにが風刺かなんてのは、なにがセクハラでなにが愛情表現かと同じく周囲の状況と歴史的経緯が決めるもんなんだから、論理的形式的に「もしそれが風刺ならヘイト許されますよね?」とか言ってるやつは「彼氏に許しておれに許さないのはおかしい」とか言ってるセクハラ野郎と変わらない。

ここでもまたジジェクの「ユカイ」な文章を掲げるなら、彼はポリティカル・コレクトネスの行き詰まり、すなわち《なにがセクハラでなにが愛情表現か》に戸惑わざるをえない男たちの困惑のさまを次ぎのように記している。

男は手順を一つ進めるごとに、前もって相手の女に明示的な許可を求めなければならないという規則である(「ブラウスのボタンをはずしてもいいかい」などと)。ここでの問題は二重になっている。まず、今日の性心理学者が何度も教えてくれているように、 あるカップルが明示的にいっしょに寝るという意志を述べる前からすでに、すべてはさまざまなレヴェルの意志確認、ボディ ・ ランゲージや視線の交換といったもので決っており、 規則をあからさまに定めることは、余計なことである。そのため、このような明示的な許可を求めることによって一つひとつ手順を進める手続は、状況を明らかにするどころか、根底的な両義性の契機をもたらし、〈他者〉の欲望という深淵を主体につきつける ( 「彼はどうしてこんなことを聞くのかしら。もうちゃんと合図を送っているんじゃなかったっけ」 ) 。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』)

さて、話を戻せば、次ぎの浅田彰によるジジェク批判(=吟味)をどう読むかは、われわれ次第である。

……もちろん、ローティに代表されるポストモダン相対主義が政治固有の次元を部分的社会工学へと解消してしまっているという批判は正しい。また、ラカン=アルチュセール主義過激派(観念論との闘争において唯物論の立場に立つことが哲学の任務である)に抵抗して、より重層的な判断の必要性を説いていたデリダ(第一のフェーズでは観念論と唯物論の優劣を逆転する必要があるが、第二のフェーズでは観念論と唯物論の対立の基盤そのものを脱構築する必要がある)も、今となってみれば、実際面ではとりあえず社会民主主義的な漸進的改良を支持する一方、理論面ではアポリアに直面しての不可能な決断といったものを神秘化するばかりという両極分解の様相を呈し、政治固有の次元を取り逃がしていると言えるかもしれない。そのような相対主義や(事実上の)オブスキュランティズムに対し、悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?

「社会工学」という語彙が出現しているが、この語は、浅田彰は他人を嘲弄するときしばしば口に出す。いまふたたび文脈から離れるが、次のように引用しておこう。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。

21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰

あるいは、山形浩生の批判に答えて「続・憂国呆談」。

冒頭と結文のみを抜粋。

「続・憂国呆談」Web版9月号で 田中康夫がビヨルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』(山形浩生訳・文藝春秋刊)に言及したのに応じて私は次のように述べた。「異常気象が 人間の活動によって引き起こされたという確証はないよ。だけど、自制して損したという後悔より、もう少し自制しときゃこんなことにならなかったのにという 後悔のほうがきつい。だから、やっぱり良識として自制しとくべきなんだ。その本の訳者である山形浩生なんかは、インテリやくざを気取って、『俺は良識派の大学人なんかとは違うぜ』っていうポーズをとりたがるんだけど、ああいう幼稚な自意識って十代で卒業しといてほしいよね」
繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」(ヴィリリオ)の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球 環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに 凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全 情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。


さて元に戻れば、上の文にあるーーひどく横道に逸れてしまったので、かなり前の引用だ……、三つ上のブロックである、ーー《悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならない》とは、「NAM運動」に意気込んでいた時期の柄谷行人への浅田彰評と同じ語り口である。

すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(『NAM生成』所収 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」における浅田彰発言)

…………

ここまで引用してきた浅田彰のジジェク批判、あるいはまた彼は柄谷行人によるNAM運動にも充分にはコミットメントしなかったわけだが、彼の態度が「生ぬるい」とするのか、ジジェクが「独断的dogmatic」すぎるのか、ーーこれも実のところ状況次第である、としたとき、われわれは「傲慢」なのだろうか。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的にdogmatically 」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

オレの意見かい? さあてね、ーー《そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだ》(「猟場の閉鎖」)

とはいえ、やはりいまだこうなのだろう、--とエラそうにいうほど、最近の若い人たちのことを知っているわけではないが。

ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。(対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学)「人文知の現在」


…………

※附記

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

ーーやや詳しくは、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」を参照。

私が言いたいのは、このことがある種のイデオロギー的に困難な状況に当てはまる、ということです。そうした状況においてダブル・バインドがあるのです。

即ち、公的レベルにおいてシステムはあなたにお決まりのメッセージを与えます。しかし、同時により深い、暗黙のレベルにおいては全く異なるメッセージが与えられるのです。

再び、寛容についての今日的言説を取り上げてみましょう。あるレベルにおいて、この言説は普遍的寛容を説きます。

しかし、より細かく見ると一連の隠された諸条件があるのです。その条件が示すのは、人は他の皆と同様である限りにおいてのみ、恕されるというものです。その言説は何が恕されるべきかを規定しています。

つまり、実際のところ、今日の寛容の文化は、どんなものであれ真の他者性へのラディカルな不寛容を通して存続するのです。真の他者性とは即ち、どんなものであれ現存の慣行への現実的脅威なのです。(「ジジェク自身によるジジェク」)

すなわち、《<他者>に対する不寛容は、不寛容で侵入的な<他者>をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。》


※参考

1、「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)
2、君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえに君から善を期待する