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2015年1月16日金曜日

聾者の国Deaf Nation、あるいはポリティカルコレクトネス

まず、ポリティカルコレクトネスの行き過ぎを説く文脈で書かれている「聾者の国Deaf Nation」をめぐるジジェクの文を掲げる。

聾者の国Deaf Nationの事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性separatenessであることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義Oralismと呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London 2009)

こういったわけで、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義Oralismの犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。 この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に行くことを想像すればよい。もし聾者の国Deaf Nationがあるなら、どうして盲者の国Blind Nationが必要ないわけがあろう、視覚偏重主義の圧制と闘うための。どうしてデブの国Fat Nationが必要でないわけがあろう、健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して。どうして愚か者の国Stupid Nationが必要でないわけがあろう、アカデミックな圧力に残忍に抑圧された。……(ジジェク『LESS THAN NOTHING』 2012 私意訳)

マイノリティ擁護の話は突き詰めていけばこういった話になってしまうのではないか。またマイノリティ側の視線は、場合によっては、《悪は、まわりじゅうに悪を見出す眼差しそのものの中にある》(ヘーゲル)の眼差しでさえありうる。

批評家・編集者である東浩紀氏が昨年の年末にツイートして一部で物議を醸した発言、《ぼくがあの問題でもっとも考えてしまったのは、写真の倫理云々というよりは、セックスワーカーという「最強の弱者」が今後言論界で果たす役割の厄介さですかね》、これも、上のポリティカル・コレクトネスの文脈にあるはずだ。

要するに、社会的通念としての「階層」秩序の下位に属するものであればあるほど、その権利を尊重しなくてはならない、と捉えうるだろう考え方、ーー巷間に猖獗するその一見「正しい」態度ーーを揶揄しているのが、「最強の弱者」発言に相違ない。

この考え方というのは、あたかも庶民的正義派のコンセンサスかのようであり、そこには「疚しい良心の裏返し」(後述)のようなものがしばしばあるのではないか。また弱者の側に立つこと、弱者との同一視は、われわれの荷を軽くしてくれ、われわれの加害者的側面を一時忘れさせ、われわれを「正義」の側に立たせてくれるに相違ない。

それはパターナリズムといってもよい。「虐げられているかわいそうな弱者を守ってやる」という厚顔無恥な「思い上がり」が滲みでるなどということがありはしないか。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面“pro-feminist” PC surfaceをちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)


もうひとつジジェクの挙げる例を提示しよう。

最近アメリカのいくつかの集団で再浮上してきたある提案(……)。その提案とは、屍姦愛好者(屍体との性交を好む者)の権利を「再考」すべきだという提案である。屍体性交の権利がどうして奪われなくてはならないのか。現在人々は、突然死したときに自分の臓器が医学的目的に使われることを許諾する。それと同じように、自分の死体が屍体愛好者に与えられるのを許諾することが許されてもいいのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p172)

半世紀ほど前はーーいや半世紀まで遡らなくてもーー、ホモセクシャル、あるいは、たとえばフェラチオでさえひどい性的倒錯と見なされていたわけであり、それは今ではごく普通にーー少なくとも先進諸国ではーー許容されるようになりつつあるといってよいだろう。「大人のおもちゃ」ショップも、路地裏から表通りに進出しつつある。であるなら、どうして屍姦愛好、すなわちネクロフィリア(necrophilia)が、近い将来、許容されないと断言できるだろう。死体から臓器移植するのとなんの変わりがあるのか。

ほかにも、暴力を受けないとオーガズムがえられない女性たちがいる、--のであるなら、「レイプの国」運動があってどうして奇妙だというのだろう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、不在だと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”ーー「レイプファンタジーの統計調査」より)

…………

上に庶民的正義派のコンセンサス、あるいはパターナリズムをめぐって記したとき、「疚しい良心の裏返し」との言葉を使ったのは、下記の意味合いである。

浅田彰)アメリカの状況は…有色人種や先住民族、女性、同性愛者、その他、何にせよマイノリティの側に立って、従来の多数派による抑圧を逆転してゆくことが「政治的に正しい」(politically correct――略してPC)という主張が、数年前から知的階層において支配的になってきている。(……)アメリカは粗野なレイシズムやセクシズムが根強く残っており、それとの対抗関係でPCが大きな社会的役割を果たし得ることは事実ですから、私はPCを一方的に批判しようとは思いません。にもかかわらず、PCが白人プチプル男性のやましい良心の裏返しの表現であることも否定しがたいと思うのですが。

ジジェク)PCの問題とは、端的に言って、「白人・男性・異性愛者でありながら曇りのない良心を保持するのはどうすればいいか」ということです。他のどんな立場の人間も、自らの固有性を主張し、固有の享楽を追及することができる。白人・男性・異性愛者の立場だけが空っぽであり、かれらだけが享楽を犠牲にしなければならない。これは神経症的強迫の典型です。問題は、それが過度に厳格であることではなく、十分に厳格ではないということです。見たところ、PC的態度は、レイシズムやセクシズムを連想させるすべてを断念する極端な自己犠牲のように見える。しかしそれは、自己犠牲という尊敬すべき行為そのものを、その行為をあえて引き受ける良心的な主体性そのものを、犠牲にしようとはしない。罪深い内容のすべてを断念することによって、それは白人・男性・異性愛者の立場を普遍的な主体性の形式として確保するのです。これはヘーゲルが禁欲主義批判において言っている通りです。PC主義者は、初期のキリスト教の聖人のように、自分の内なる罪をあくことなく暴き立てようとする。かれらが本当に恐れているのは、その探求がどこかで終わり、問題が解消されてしまうことなのです。言い換えれば、PC的態度は、アラン・ブルームらの言うように六八年以後の極左主義の偽装された現れであるどころか、ブルジョワ自由主義を守るイデオロギーの盾にほかなりません。

ちなみに、精神分析的に言えば、アメリカ人の強迫的なPC妄想に対して、ヨーロッパの古典的知識人のヒステリー的な問いを対置することができるでしょう。「私が曇りのない良心をもって従うことのできる正当な権力はどれか」という問いです。かれらは自分たちのアドヴァイスを聞き入れてくれる「良き主人」を探している。しかし、自分たちの側が勝利するたびに、「これは自分たちが本当に望んでいたものじゃない!」というヒステリー的な反応を示す。社会党が政権をとったときのフランスの左翼知識人の反応はその典型です。

浅田)あなたの精神分析的な診断は、そのアイロニカルな倍音も含めて、最終的には正しいと思います。ただ、重ねて強調したおきたいのは、PCならPCが、レイシズムはセクシズムが潜在的に広がっているアメリカの文脈においては、それなりの社会的役割を果たし得るということです。むしろ、私たちが認識すべきなのは、具体的な文脈によって、一見リベラルな立場が正反対の効果をもらたし得るし、逆もまた真であるということ、あらゆる局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などあり得ないということでしょう。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993『「歴史の終わり」と世紀末の世界』)

この対話文の最後に、《私たちが認識すべきなのは、具体的な文脈によって、一見リベラルな立場が正反対の効果をもらたし得るし、逆もまた真であるということ、あらゆる局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などあり得ないということでしょう》とあるが、この態度は、悪くすれば「相対主義」との批判に遭遇しかねないとはいえ、実際のところはなかなか捨てがたい姿勢ーーとくに「インテリ」として振舞いたければーーだろう。

次ぎの東浩紀氏のツイートも、《局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などはあり得ない》ことを語っている。

東浩紀@hazuma: なにがヘイトでなにが風刺かなんてのは、なにがセクハラでなにが愛情表現かと同じく周囲の状況と歴史的経緯が決めるもんなんだから、論理的形式的に「もしそれが風刺ならヘイト許されますよね?」とか言ってるやつは「彼氏に許しておれに許さないのはおかしい」とか言ってるセクハラ野郎と変わらない。

ここでもまたジジェクの「ユカイ」な文章を掲げるなら、彼はポリティカル・コレクトネスの行き詰まり、すなわち《なにがセクハラでなにが愛情表現か》に戸惑わざるをえない男たちの困惑のさまを次ぎのように記している。

男は手順を一つ進めるごとに、前もって相手の女に明示的な許可を求めなければならないという規則である(「ブラウスのボタンをはずしてもいいかい」などと)。ここでの問題は二重になっている。まず、今日の性心理学者が何度も教えてくれているように、 あるカップルが明示的にいっしょに寝るという意志を述べる前からすでに、すべてはさまざまなレヴェルの意志確認、ボディ ・ ランゲージや視線の交換といったもので決っており、 規則をあからさまに定めることは、余計なことである。そのため、このような明示的な許可を求めることによって一つひとつ手順を進める手続は、状況を明らかにするどころか、根底的な両義性の契機をもたらし、〈他者〉の欲望という深淵を主体につきつける ( 「彼はどうしてこんなことを聞くのかしら。もうちゃんと合図を送っているんじゃなかったっけ」 ) 。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』)

さて、話を戻せば、次ぎの浅田彰によるジジェク批判(=吟味)をどう読むかは、われわれ次第である。

……もちろん、ローティに代表されるポストモダン相対主義が政治固有の次元を部分的社会工学へと解消してしまっているという批判は正しい。また、ラカン=アルチュセール主義過激派(観念論との闘争において唯物論の立場に立つことが哲学の任務である)に抵抗して、より重層的な判断の必要性を説いていたデリダ(第一のフェーズでは観念論と唯物論の優劣を逆転する必要があるが、第二のフェーズでは観念論と唯物論の対立の基盤そのものを脱構築する必要がある)も、今となってみれば、実際面ではとりあえず社会民主主義的な漸進的改良を支持する一方、理論面ではアポリアに直面しての不可能な決断といったものを神秘化するばかりという両極分解の様相を呈し、政治固有の次元を取り逃がしていると言えるかもしれない。そのような相対主義や(事実上の)オブスキュランティズムに対し、悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならないというジジェクの立場は、分かりすぎるほどよく分かる。しかし、それが60年代のヨーロッパのマオイズムと同じ極端な主観主義のネガなのではないか、あるいは、現在支配的なポストモダン相対主義のネガなのではないかという疑いを、われわれはどうしても払拭することができないのである。(パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?

「社会工学」という語彙が出現しているが、この語は、浅田彰は他人を嘲弄するときしばしば口に出す。いまふたたび文脈から離れるが、次のように引用しておこう。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。

21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰

あるいは、山形浩生の批判に答えて「続・憂国呆談」。

冒頭と結文のみを抜粋。

「続・憂国呆談」Web版9月号で 田中康夫がビヨルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』(山形浩生訳・文藝春秋刊)に言及したのに応じて私は次のように述べた。「異常気象が 人間の活動によって引き起こされたという確証はないよ。だけど、自制して損したという後悔より、もう少し自制しときゃこんなことにならなかったのにという 後悔のほうがきつい。だから、やっぱり良識として自制しとくべきなんだ。その本の訳者である山形浩生なんかは、インテリやくざを気取って、『俺は良識派の大学人なんかとは違うぜ』っていうポーズをとりたがるんだけど、ああいう幼稚な自意識って十代で卒業しといてほしいよね」
繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」(ヴィリリオ)の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球 環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに 凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全 情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。


さて元に戻れば、上の文にあるーーひどく横道に逸れてしまったので、かなり前の引用だ……、三つ上のブロックである、ーー《悪役の責めを負うことを覚悟してあえてドグマティックな現実への介入を行なわなければならない》とは、「NAM運動」に意気込んでいた時期の柄谷行人への浅田彰評と同じ語り口である。

すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(『NAM生成』所収 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」における浅田彰発言)

…………

ここまで引用してきた浅田彰のジジェク批判、あるいはまた彼は柄谷行人によるNAM運動にも充分にはコミットメントしなかったわけだが、彼の態度が「生ぬるい」とするのか、ジジェクが「独断的dogmatic」すぎるのか、ーーこれも実のところ状況次第である、としたとき、われわれは「傲慢」なのだろうか。

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的にdogmatically 」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

オレの意見かい? さあてね、ーー《そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだ》(「猟場の閉鎖」)

とはいえ、やはりいまだこうなのだろう、--とエラそうにいうほど、最近の若い人たちのことを知っているわけではないが。

ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。(対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学)「人文知の現在」


…………

※附記

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

ーーやや詳しくは、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」を参照。

私が言いたいのは、このことがある種のイデオロギー的に困難な状況に当てはまる、ということです。そうした状況においてダブル・バインドがあるのです。

即ち、公的レベルにおいてシステムはあなたにお決まりのメッセージを与えます。しかし、同時により深い、暗黙のレベルにおいては全く異なるメッセージが与えられるのです。

再び、寛容についての今日的言説を取り上げてみましょう。あるレベルにおいて、この言説は普遍的寛容を説きます。

しかし、より細かく見ると一連の隠された諸条件があるのです。その条件が示すのは、人は他の皆と同様である限りにおいてのみ、恕されるというものです。その言説は何が恕されるべきかを規定しています。

つまり、実際のところ、今日の寛容の文化は、どんなものであれ真の他者性へのラディカルな不寛容を通して存続するのです。真の他者性とは即ち、どんなものであれ現存の慣行への現実的脅威なのです。(「ジジェク自身によるジジェク」)

すなわち、《<他者>に対する不寛容は、不寛容で侵入的な<他者>をまわりじゅうに見出す眼差しの中にある。》


※参考

1、「涙もろいリベラルが「ファシズムへ の道」だと非難するなら、言わせておけ!」(ジジェク)
2、君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえに君から善を期待する