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2015年1月16日金曜日

記念日現象

その人にとって重要な事件が1周年を迎えるときには、しばしば「記念日現象」というものが起こります。悲しいこともうれしいことも、あらゆる追憶を呼び覚まされることで、空気の肌触りとか温度とか、そういうものが総合的に引き起こすとも言われています。

 阪神大震災から1年を迎えるころ、私は新聞に「記念日現象」を警告する文章を書きました。実際に、当時委託していた24時間態勢の電話相談の窓口には、1月17日前後の数日間に集中して百数十件の電話がありました。

 人間の身体はさまざまな形で周期づけられています。私自身も脳梗塞の発作と言える目まいを震災から1年たったころに起こしています。そのときは震災1年との関係を意識しておらず、その年の秋に脳梗塞を起こすまで忘れていた。当時の記録を後から読んで、思い出したんです。

 また、このころは眠りが浅くなり、就寝途中で目覚めることも多くなりました。ふと時計を見ると(阪神大震災の発生時刻の)5時46分だったことが何度かあり、思わず笑いだしてしまったこともある。これも「記念日現象」なのかもしれません。こうしてみると、時間はらせん状に過ぎてゆくという面があるように思います。しかし普段はなかなか気づかれない。(中井久夫「歳月とこころ」


 もちろん「記念日現象」は1周年のみに訪れるだけではない。20周年であってもそれはありうる。とはいえその追憶を呼び覚まされる強度は、時と場合によって、多寡がある。

昨年から今年の当地はやや異常気候で、平年は11月の初めから半ばに季節が雨季から乾季に変わり、変わった後の半年はほとんど雨が降らないのが通例なのだが、昨年は12月の半ばまで、雨が--雨季のときの篠突く雨ではなくーー、穏やかな降りの雨が三日に一度程続いた。今年になってやっと例年の乾季の感覚が訪れた。乾季の始まりは、亜熱帯気候の当地ではもっともすがすがしい季節で、気温もやや下がる。とはいっても終日Tシャツ、短パンで過せる気温で、日本でいえば梅雨前の五月のさわやかさの感覚か。

すなわち例年は1月なかばには、もうかなり暑くなっているのだが、今年は異常気候のせいで、今がもっとも心地よいということだ。空気の肌触りとか温度が、日本のすがすがしい気候を想い起こさせ、そのせいでの今年の「記念日現象」の強烈さなのかもしれない。

もともとわたくしは微風に身を任せるのを、おそらく、ふうつの人よりもいっそう好むのかもしれないが、二階の書斎の東西に開け放たれた窓から吹き込む風に呆然となる時間が先程訪れた。西向きの窓には大きく育った木蓮の樹がある。日よけのために植えたものだが、もうすぐ18歳になる長男の誕生祝に植えた樹でもある。その葉ごもりを透かして午後の光がダイヤモンドのように燦めく。それはニーチェの「正午」のような「午後」の一刻だ。

つつしむがいい。
熱い正午が野いちめんを覆って眠っている。
歌うな。静かに。世界は完全なのだ。

歌うな。草のあいだを飛ぶ虫よ。
おお、わたしの魂よ。囁きさえもらすな。
見るがいいーー静かに。
老いた正午が眠っている。
いまかれは口を動かす。
幸福の一滴を飲んだところではないか。

ーーニーチェ「正午」『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

葉叢を透かした光の粒の輝きは、強度の近眼のものにとっていっそう美しいのを知っているだろうか。それは近眼者の特権である。ああ、まことに光が歌っているかのように!

《植物の熱気、おお、光、おお、恵み!…/それからあの蠅たち あの種の蠅ときたら、庭のいちばん奥の段へと、まるで光が歌っているかのように!》(「サン=ジョン・ペルス詩集」多田智満子訳)

蓮實)散髪台の上の男が自分の顔を鏡に映してみることなく、きまって横から撮られてた画面しかない(……)

ヴェンダース)それは私が強度の近眼で、床屋で眼鏡をはずすと、もう目の前の鏡に映っている顔がまったく識別不能になってしまうからです(笑)。

蓮實)ああ、偉大な映画作家は、やはりみんな近眼なのだ。フォードも、フィリッツ・ラングも、そしてあなたも(笑)。(『光をめぐって』)

それはプルーストの朝の浴室のようでもある。

アルベルチーヌは、フランソワーズの口から、私がまだカーテンをしめきった部屋の暗闇のなかで、もうねむりからさめているときかされると、彼女の化粧室で湯あみをしながら、遠慮をせずに、すこし物音をたてるのだった。すると、しばしば私は、もっとおそい時間を待たないで、すぐさま私の浴室にはいってゆく、それは彼女の浴室に隣りあっていて快適なところだった。昔、ある劇場支配人は一座のプリマドンナが皇后の役を演じる玉座に本物のエメラルドをちりばめるために、数十フランを投じたものだ。ロシア・バレエがわれわれにおしえたところによると、必要な場所にあてられる単なる証明のテクニックだけで、おなじような豪華な、しかもより以上に変化に富んだ宝石をばらまくことができるのだ。そんな舞台装飾は、その照明だけですでに本物の宝石以上に霊妙に見えるが、それとても、朝の八時に太陽がちりばめる宝石かざりほどには美しくないのであって、その太陽は、ふだん私たちが正午にしか起きなかったその時間に見慣れていたものとはまるでちがった宝石を浴室にかざっているのだ。二つの浴室のそれぞれの窓は、私たちのはいっているのがそとから見えないように、すべすべしたガラスではなくて、わざと霜をぎざぎざにつけた時代おくれのガラスだった。太陽は突然このガラスのモスリンを黄色にし、金色にした、そして、習慣が長いあいだかくしてしまっていたずっと昔の一人の若者を私のなかにそっと浮かびあがらせながら、私を回想で酔わせるのであった、あたかも私が自然のまっただなかで金色に染まった葉のしげみをまえにしているかのように、しかもそのしげみのなかには、おあつらえ向きに、一羽の小鳥さえいるのであった。というのも、私には、アルベルチーヌがひっきりなしにさえずっているのがきこえたからである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

だが美しいだけではない。ひどい痛みを伴っている。あの日が、わたくしにとって日本を捨て去る機縁になったとまでは言うまい。そもそもわたくしは直接の被災者ではない。たまたま震災が起こった神戸エリアに駆けつけなくてはならない理由ーー別れた直後の妻娘が西宮に住んでいたーーがあっただけだ。そしてある集団の歌と踊りに遭遇した。

このたびの阪神・淡路大震災ではいろいろなことがあったけれでも、震災被害者に対する顕著な差別はなかったと言い切っても、さほど異論が出ないのではないか。

差別は、震災被害者の外的・内的の事情に対する無理解や誤解とは別のことである。そういうものなら当然ある。過不足のない理解を外部の人に求めるのはそもそも無理であり、被災者もそれを求めはしなかった。また、オーストラリアの災害研究者ラファエル女史は『災害の襲うとき』の中で、被災者にとって最大の危機は忘れられる時であると述べているが、そういう意味でも、阪神・淡路大震災は、これまで日本を襲った災害の中ではもっとも忘れられなかったものといってよいだろう。

外国人差別も市民レベルではなかったといってよい。ただ一つベトナム難民と日本人とが同じ公園に避難した時、日本人側が自警団を作って境界に見張りを立てたことがあった。これに対して、さすがは数々の苦難を乗り越えてきたベトナム難民である。歌と踊りの会を始めた。日本人がその輪に加わり、緊張はたちまちとけて、良性のメルトダウンに終ったそうである。……(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」より 2000.5初出『時のしずく』2005所収)

 あの日はわたくしの誕生日でもあった。

1995年1月17日午前5時46分から

最初の一撃は神の振ったサイコロであった。多くの死は最初の五秒間で起こった圧死だという。(……)私も眠っていた。私には長いインフルエンザから回復した日であった。前日は私の六一歳の誕生日であり、たまたまあるフランスの詩人の詩集を全訳して、私なりに長年の課題を果たした日でもあった。……(中井久夫「災害がほんとうに襲った時」)
一九九五年一月十六日は私の六十一歳の誕生日である。「ナルシス断章」は四十数年前、私が結核休学中に幼い翻訳を試みたヴァレリー最初の詩篇であった。私は再びこの詩に取り組んでいた。「今さらナルシスでもあるまい」と自嘲しながら四十数年前の踏みならし道をわりとすらすら通っていった。冒頭の一行が難所である。「いかにきみの輝くことよ。私の走る、その究極の終点よ」というほどの意味で、泉への呼びかけであるが、四〇年以上これ以上の訳を思いつかなかったと、「訳詩のミューズ」という目立たないミューズに謝って、えいやっと「水光る。わが疾走はついにここに終わる」とした。最後の一行を訳しおえて、睡眠薬の力を借りて眠った三時間後に地震がやってきた。(中井久夫「ヴァレリーと私」)

…………

※附記

……私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生だった。(……)

昨年の三月ごろであったか、私はふっと定年までの年数を数え、もうお付き合い的なことはいいではないかという気になった。「面白くない論文はもう読まない。疲れる遠出はしない。学会もなるべく失礼する。私を頼ってくれる患者と若い人への義務を果たすだけにしよう。残された時間を考えれば、今の三時間は、若い時の三時間ではない」と思って非常に楽になった。

幸い、私はさほど大きな欲望を授からなかった。「自己実現」ということが人生の目標のようにいわれるが、私はほとんどそれを考えたことがない。私の「自己」はそれなりにいつも実現していたと、私は思ってきた。

私が恵まれているからだといえば、反論できない。確かに「今は死ぬに死ねない」という思いの年月もあった。しかし、私は底辺に近い生活も、スッと入ってしまいさえすれば何とか生きていけ、そこに生きる悦びもあるということを、戦後の窮乏の中で一応経験している。他方、もし経済的に恵まれていたならば、私はペルシャ文学などのあまり人のやらないものをやって世を送るだろうに、と大学進学のときに思った。ある外国の詩人の研究家になろうかと思ったこともある。この二つの思いは時々戻ってきた。しかし五十歳を過ぎてから、私はかなり珍しい文学の翻訳と注釈を出し、また、例の詩人の代表作を翻訳してしまった。さすがにこれが出版されたとき、私(の人生)はこれ一つでもよかったくらいだ、後はもう何でもいいという気に一時はとらわれた。(中井久夫「私の死生観」――1994年「クリシアン」第427号に書かれたもの(『精神科医がものを書くとき〔Ⅱ〕』広栄社 所収)