今日、社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである。これらの問題は、想像の魔神がすでに敗退したのでないなら、席を占めることはできなかったのである。どうして自己の価値を誇称する必要があろう。かつてトルストイに現れたもの、すなわち否定し難い減退を自分のうちに認めることを何故拒否する要があろう。(「ジイドの日記 1932年」)
ーー「創造の魔神」に引き続いて「想像の魔神」とあるのは原文通り。
小林秀雄の「作家の顔」からの孫引きであるが、「作家の顔」とは正宗白鳥とのいわゆるトルストイ論争ーートルストイの晩年の妻のヒステリーによる家出、あるいはその野垂れ死をめぐるーーの三連発の第一弾目であり、その後「思想と生活」、「文学者の思想と実生活」と続く。いまごろこの昭和十一年に書かれた文章に感心するのもなんだが、ようやく小林秀雄が何をこの論争で言いたかったのかが、その尻尾のひとつのようなものを摑みかけた気分だ。とはいえ摑みかけただけであり、地の文を引用する気にはいまだならない。当時小林は、ドストエフスキー論を執筆中で、ドストエフスキーへの言及も豊富であり、それ以外にもフローベールを引用したりして、縦横無尽の感がある、――とだけ今はしておく。
とはいえ、今後、噛み砕いて、あるいは要領を得て、引用できる自信もないので、小林秀雄節の例を、その第三弾「文学者の思想と実生活」から、文脈とは離れて、ふたつのパラグラフだけ引用しておこう。
「芸術も思想も絵空ごとだ、人は生まれて苦しんで死ぬだけのことだ、という無気味な思想を、トルストイが『アンナ・カレニナ』で実現し、これを捨て去ったことは周知のことだ。他人がいったん捨て去った思想を拾い上げるのは勝手だが、ナポレオンの凡人たることを証明した天才を捕え、その凡人性に感慨をもよおすことは気が利かないのである」と僕が書いたのを、正宗氏は、奇怪な言だ、と言う。なぜ奇怪な言なのだろうか。トルストイが彼の思想を捨て去ったことは、正宗氏がこれを再び拾い上げるのを妨げぬし、正宗氏がこれによって抽象的煩悶を抱くことも妨げない。そして誰も正宗氏の煩悶を侮蔑する者はあるまい。僕はそんなことが言いたかったのではない。およそ人間の凡人性に感慨をもよおすのに何もトルストイを選ばなくてもよいではないかと言うので、それが気が効かないという言葉の意味である。選ばなくてよいと言うよりむしろ僕は選んではならぬと言いたいのだ。そういうことは偉人を遇する道ではないと思うし、偉人の真相を不必要に歪めることだと思う。なるほどいかにも凡人らしい奴が実は凡人だったりしてもおもしろくなかろう。天才と称えられた人物の日記なぞ読んでみてやっぱりただの人だったりすれば、劇的興味が湧くだけの話だ。
前の文章でドストエフスキイの複雑な実生活の相について述べたが、正宗氏は文豪の性行には美醜両面があるので、一方、神のような人間にも他面、獣のような処もあるという僕の論じ方は常識的世間通の口吻を出ないと言っている。これは意外なことで、僕は、まさしくそういう世間通の口吻を皮肉ったつもりであれを書いたのである。皮肉のつもりで書いたところを、馬鹿正直に読まれては迷惑に思う。その実生活をよく知った親友から獣と罵られ、細君からは理想の人間と讃美され、スタヴロギンを書き、ゾシマを書いたドストエフスキイという現実の人間の真相とは何か。もしそれが明瞭なものだったら、他人が詮索するまでもない、当人が判然たる自画像の一つも書いておいてくれたはずだ。
さて、ここでは、小林秀雄批判もある岡崎乾二郎が、どうして95年にモダニズムのハード・コアが出たのかという話のなかで、《日本にグリーンバーグがいなかったのは、グリーンバーグより優秀な小林秀雄がいたから》とか、同じく高橋悠治と同様、小林秀雄メロドラマ説を流通させた蓮實重彦が、《で、小林秀雄あたりからそれがおかしくなってきている。やっぱり小
林秀雄ってのは頭がよすぎて、そんなことを考えてたらば、早晩なんにも書く ことがなくなるということがかなり若いときからわかっていたんでしょう》などと語っているようだが、正宗白鳥とのトルストイ論争にても、小林秀雄は頭がよすぎたのだ、ーーなどと漠然とした感想を書き綴るのはいかにも芸がないがやむ得ない。
彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)
未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象アンプレッション」された唯一の書物である。人生がわれわれのなかに残した思想が何に関するものであろうとも、その思想の具体的形象、すなわちその思想がわれわれのなかに生んだ印象の痕跡は、なんといってもその思想がふくむ真理の必然性を保証するしるしである。単なる理知のみのよって形づくられる思想は、論理的な真実、可能な真実しかもたない、そのような思想の選択は任意にやれる。われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物、それこそがわれわれの唯一の書物である。といっても、われわれが形成する諸般の思想が、論理的に正しくない、というのではなくて、それらが真実であるかどうかをわれわれは知らない、というのだ。印象だけが、たとえその印象の材料がどんなにみすぼらしくても、またその印象の痕跡がどんなにとらえにくくても、真実の基準となるのであって、そのために、印象こそは、精神によって把握される価値をもつ唯一のものなのだ、ということはまた、印象からそうした真実をひきだす力が精神にあるとすれば、印象こそ、そうした精神を一段と大きな完成にみちびき、それに純粋のよろこびをあたえうる唯一のものなのである。作家にとっての印象は、科学者にとっての実験のようなものだ、ただし、つぎのような相違はある、すなわち、科学者にあっては理知のはたらきが先立ち、作家にあってはそれがあとにくる。われわれが個人の努力で判読し、あきらかにする必要のなかったもの、われわれよりも以前にあきらかであったものは、われわれのやるべきことではない。われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
…………
さて、ーーしかし、これではなにか足りない気がする。
一月ほど前読んで、ひどく愉快になった坂口安吾の文章でもつけ加えておくことにする。もっとも、これは石川淳の話が面白いのだが。
そう、あの名文家の石川淳である。
日本語の文学的散文を操って比類を絶するのは石川淳である。その漢文くずし短文は、語彙の豊かさにおいて、語法の気品において、また内容の緊密さにおいて、荷風を抜きほとんど鴎外の塁に迫る。・・・・・・荷風以後に文人と称し得る者はただ一人の夷斎石川である。(加藤周一『日本文学史序説』)
おそらく日本語が到達しうる文体の極限がここにある。(安部公房「解題」石川淳『夷齋筆談』)
なるほど彼(石川淳)は、当代きっての巧みな日本語遣いというべきで、ときには威勢よく啖呵を切り、きわどい冗談をさらりと言ってのけ、下世話な題材を繊細な比喩でもっともらしい語り口に仕立てあげてみせたあたり、その小気味よさに思わずうっとしもしてしまう(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)
ということで、坂口安吾の『安吾巷談』より。
ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しい作家は、作家的にも逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。
しかし、天性敏活で、チョコ/\と非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった。
私は熱海の火事場を歩きまわってヘトヘトになり、しかし、いくらでもミレンはあったが、女房がついてるから仕方がない。終電車の一つ前の電車にのって伊東へ戻った。満員スシ詰め、死ものぐるいに押しこまれて来ノ宮へ吐きだされた幾つかの電車のヤジウマの大半が終電車に殺到すると見てとったからで、事実、私たちの電車は、満員ではあったが、ギュウ/\詰めではなかった。さすればヤジウマの大半が終電事につめかけたわけで、罹災者の乗りこむ者も多いから、終電車の阿鼻叫喚が思いやられた次第であった。
網代の漁師のアンチャン連の多くは火事場のどこで飲んだのか酔っぱらっており、とうとう喧嘩になったらしく、網代のプラットフォームは鮮血で染っていた。
伊東へついて、疲れた足をひきずり地下道へ降りようとすると、
「アッ。奥さん」
「アラア」
と云って、女房が奇声をあげて誰かと挨拶している。新潮社の菅原記者だ。ふと見ると、石川淳が一しょじゃないか。
「ヤ、どうしたの」
ときくと、石川淳は顔面蒼白、紙の如しとはこの顔色である。せつなげに笑って(せつないところは見せたがらない男なのだが、それがこうなるのだからなおさら痛々しい)
「熱海で焼けだされたんだ。菅原と二人でね。熱海へついて、散歩して一風呂あびてると、火事だから逃げろ、というんでね」
文士の誰かがこんな目にあってるとは思っていたが、石川淳とは思いもよらなかった。
彼らは夕方熱海についた。起雲閣というところへ旅装をといて、散歩にでると、埋立地が火事だという。そのとき火事がはじまったのである。
火事はすぐ近いが、石川淳はそれには見向きもせず、魚見崎へ散歩に行った。菅原が罹災者の荷物を運んでやろうとすると、
「コレ、コレ。逆上しては、いかん。焼け出されが逆上するのは分るが、お前さんまで逆上することはない」
と云って、たしなめて散歩につれ去ったのである。魚見崎が消えてなくなることはあるまいのに。しかし、火事は一度のものだ。その火事も相当の大火であるというのに、火の手の方はふりむきもせず、アベコベの方角へ散歩に行った石川淳という男のヤジウマ根性の稀薄さも珍しい。