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2015年10月27日火曜日

バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町

人は再び子どもになることはできず、もしできるとすれば子どもじみるくらいがおちである。しかし子どもの無邪気さは彼を喜ばさないであろうか。そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階で自らもう一度努力してはならないであろうか。子どものような性質のいい人にはどんな年代においても、彼の本来の性格がその自然のままの真実さで蘇らないだろうか。人類がもっとも美しく花を開いた歴史的な幼年期が、二度と帰らない一つの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか。しつけの悪い子どももいれば、ませた子どももいる。古代民族の多くはこのカテゴリーに入る。ギリシャ人は正常な子どもであった。彼らの芸術がわれわれに対して持つ魅力は、その芸術が生い育った未発展な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果である。それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、再び帰ることは絶対にありえないということと、固く結びついていて、切り離せないのである。(マルクス『経済学批判』)

…………


1915年、フランス北西部、シェルブールで生まれる。誕生後、間もなくフランス南西部のバイヨンヌに転居。
1916年、海軍中尉だった父親戦死。
1924年、パリに転居。

ーーああ、そうだったのか、9歳ですでにパリに転居とは。

手紙で借りる話をまとめておいた家具つきのアパルトマンが、ふさがっていた。彼らは、パリの十一月のある朝、グランシエール街で、トランクと手荷物をかかえて途方に暮れる羽目に陥った。 近所の乳製品のおかみさんが、うちへ入れて、あついショコラとクロワッサンをご馳走してくれた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

なぜ、わたくしにはロラン・バルトのバイヨンヌ、プルーストのコンブレーがないのだろう。

バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町。河に沿い、響きゆたかな周囲(ムズロール、マラック、ラシュパイエ、ベーリス)と空気の通じあっている町。そして、それにもかかわらず閉じた町、小説的な町。(……)幼い頃の最初の想像界。スペクタクルとしてのいなか、匂としての“歴史”、話しかたとしてのブルジョワジー。(『彼自身によるロラン・バルト』)
私は歩きはじめていた。プルーストは、まだ生きていて、『失われた時』を仕上げようとしていた。(同上)



故郷の町の名を口に出しても、まったく澄明さや甘美な夢想は訪れない。むしろ中原中也の詩句がお似合いだ。


これが私の故里とだ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

過去のうちで、私をいちばん魅惑するのは自分の幼年期である。眺めていても、消えてしまった時間への後悔を感じさせないのは幼年期だけだ。なぜなら、私がそこに見いだすものは非可逆性ではなく、還元不可能性だから。すなわち、まだ発作的にときおり私の中に存在を示すすべてのものだからである。子どもの中に、あらわに私が読み取るもの、それは、私自身の黒い裏面、倦怠、傷つきやすさ、さまざまの(さいわいに複数の)絶望への素質、不幸にもいっさいお表現を断たれた内面的動揺。(『彼自身』)

このような魅惑を与えてくれる町の名やそれにまつわる記憶はーー故郷の町の名ではなくてもいいーー、しばしば訪れや住んだ町のなかにはたしてわたくしにあるだろうか。

10年近く住んだ嵐山?(実際は阪急嵐山線のひとつ手前の駅松尾近辺だが)。嵯峨野の奥まで自転車で買いに行った名店のあぶらげがひどく美味だった。それと途中にある蓮華畑の見事なこと!あるいは五月の風のかおり! だがこれは青年期を過ぎてからだ。

学生時代の下宿、東京の下町(弥生町)から根津、ああ根津、それに谷中、--。

食事や銭湯に行くのは言問通りの坂を降りる(調べたら弥生坂というらしい)。途中に東京大学の工学部の敷地があって抜け道として通る。夏にはくちなしの白い花が宵闇のなか匂った。下町のせいか銭湯には粋な老人がいたり倶利伽羅紋紋のおじさんやおにいさんもいた。湯船に沈んで彼らの背中を眺める。背中の絵柄もすばらしいが、ときに拡げられた脚の間から下まで届きそうな逸物が覗き見えた。

言問通りをさらに下がると、左手には谷中の墓地、右手は上野の山だ。東京文化会館でビラ配りのアルバイトをした。演奏会情報の分厚いそれを訪れた観客に渡すだけの仕事。ただし観客がすぐさま放り出して場内に散乱しているそのビラを片付けるのも含まれる。何人かの悪友とともにその作業の後、空いた席を各人見つけて居残った。それが半年ほどもつづいた(後に漸くばれた。演奏の前半部分の休憩後、遅れてやってき客が座席を占有して居眠っていた友に文句をつけたことによる)。当時は有名な海外演奏家はほとんど東京文化会館で演奏した。私は堪能した(し過ぎた、と言ってもよい。後に演奏会にはほとんど行かなくなったのはこのためかもしれない。)

十代のころ毎年のように訪れた八ヶ岳? 山小屋風の宿で飲む絞りたての牛乳のおいしさにびっくりした。だがこれも真の幼年期ではない。

小学生のころ毎年のように海水浴に訪れた浜名湖の旅館ーー廊下におおきな松があって、天井を突き抜けていたーーにはにおいの記憶がそれなりにある。浅蜊掘りの澱んだ、だが懐かしい海砂のにおい、潮風、甘いタレの団子……。

それとも伊良湖岬の海か(そこまで行かなくても伊古部海岸?)、

いっそうのことサイゴンやプノンペンの空港に降りたとたんに襲われる魚醤のにおい?

探せばほかにもないわけではないが、どれも幼年期ではないのだ・・・

そうだ、においということでいえば、京都の錦市場のにおいというのは忘れ難い。




休みの日になると錦市場で漬物や干物などを購いーーわたくしがそれまで見向きもしなかったタラやサワラの粕漬け、それに粕汁を好むようになったのは(ああ粕汁ともながいあいだ縁がない!)、この市場での買物によるーー、あたりの路地を散歩してイノダコーヒー三条店にて休憩するというのがしばらく続いた時期がある。イノダ本店もわるくはないが、三条店のカウンターがお気に入りだった。




……私の二番目の南西部は一つの地方ではない。一つの線、体験したことのある一つの道のりだ。パリから自動車できて(この旅はいく度も繰り返している)アングレームを過ぎると、ある兆で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから。(ロラン・バルト「南西部の光」)

これはある。東京や京都から新幹線や自動車で故郷の町ちかくに来ると、光と風がちがう。樹木層がちがう。 風のにおいがちがう。熱海や静岡あたりの鬱陶しい町を通りすぎ、浜名湖にちかづくと、ああ実に、自分の家の敷居をまたいだ気がする。西からだったら西三河の岡崎近辺でさえいけない。重苦しいところだぜ、あのあたりは、--シツレイ!ーー、蒲郡に来ると、ああ海だ! 故郷の町に近づいた! という具合になる。光? 《私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ》!

ーーわたくしは母の死ぬ前一年間ほどは(23~24歳時)、京都からほぼ毎週自動車で故郷の町へ帰省した。だから名神から東名の高速道路にはひどく馴染んでいる。居眠り運転して中央分離帯に乗り上げかかったこともある。車はひどくジャンプした。




私の三番目の南西部はもっと限定されている。それは私が幼児期と、その後は少年期の休暇を過した町(バイヨンヌ)であり、私が毎年戻っていく村であり、その両者を結び、私が何回となく、町に葉巻きや紙類を買いに、あるいは駅に友人を迎えに通った道のりである。

(……)私はそうした現実の領域には私なりのやり方で、つまり私の身体で入っていく。そして私の身体というのは、歴史がかたちづくった私の幼児期なのだ。その歴史は私に田舎の、南部の、ブルジョワ的な青春を与えてくれた。私にとって、この三つの要素は区別できない。ブルジョワ的な生活とは私にとって地方であり、地方とはバイヨンヌである。田舎(私の幼児期の)とは、きまって遠出や訪問や話の網を織りなすバイヨンヌ近郊のことだ。こうして、記憶が形成される年頃に、私はその《重大な現実》から、それらが私にもたらした感覚のみを汲みとっていった。匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など、現実のうち、いわば無責任なもの、後に失われた時の記憶を作り出すという以外に意味のないものばかり(私がパリで過した幼年期はまったく異なるものだった。金銭的困難がつきまとい、いってみれば、貧しさの厳しい抽象性をおびていて、その頃のパリの《印象》はあまり残っていない)。私が、記憶をとおして私の中で屈折した通りの南西部について語るのは、「感じる通りに表記するのではなく、記憶している通りに表現すべきである」というジュベールの言葉を信じているからだ。

このたわいもない事柄が、したがって、社会学的知識や政治分析が扱っている、あの広い領域への入口なのだ。たとえば、私の記憶の中で、ニーヴ河とアドゥール河にはまされた、プチ=バイヨンヌと呼ばれる古い一角の匂いほど重要なものはない。小さな商店の品物がすべていり混じって、独特の香りを作り出していた。年老いたバスク人たちが編むサンダルの底の縄(ここでは《エスパドリーユ》という言葉は使わない)、チョコレート、スペインの油、暗い店舗や細い道のこもった空気、市立図書館の本の古い紙。これらすべては、今はなくなってしまった古い商いの化学式のように機能していた(もっとも、この一角はまだ昔の魅力の一端をとどめてはいるが)、あるいはもっと正確にいうと、今現在その消失の化学式として機能している。匂いを通じて私が感じとるもの、それは消費の一形態の変移そのものである。すなわち、布靴〔サンダル〕は(悲しいことにゴム底になってしまって)もう職人仕事ではなくなったし、チョコレートと油は郊外のスーパーで買い求められる。匂いは消えてしまった。あたかも逆説的に、都市汚染の進行が家庭の香りを追い出してしまったかのように。あたかも《清潔さ》が汚染の陰湿な一形態であるかのように。

(……)私は南西部をすでに《読んでいた》。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテクストを追っていたのである。というのは、一つの国を《読む》ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識するのが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。(ロラン・バルト「南西部の光」1977『偶景』所収)

八町味噌と味醂や砂糖でのタレで味付けして炙った五平餅の香ばしい匂いがしてこないわけではない。家から歩いて500メートルほど先に、3日と8日に路上市が開かれた。三八市という。そこの屋台で売っていた五平餅だ。ああ喰いたい! 




しかしバイヨンヌハムで我慢しておこう。これはサイゴンのフランス人居住区で手軽に手に入れることができる。




昔は、白い市街電車がバイヨンヌからピアリッツまでかよっていた。夏になると、それに、前面オープンの、特別室などないワゴンが一両連結されるのであった。散策車である。何とも嬉しくて、みんなそれに乗りたがったものだ。ごてごてとうるさいもののほとんどない沿線の風景を眺めながら、人びとは、眺望と動きと空気とを同時に享楽していた。今はもう、散策車も市街電車もなく、ピアリッツへの旅は、うんざりするような作業である。こんなことを言っても、過去を神秘的に美化したり、失われた青春への愛情を語りたいからではなく、その口実に市街電車を惜しみなつかしんでいるわけではない。言いたいのは、暮らしの流儀には歴史がない、ということなのだ。それは進化するものではない。一度消え去った快楽は永久に消え去り、代入は不可能である。ほかのさまざまな快楽が現れるが、それは何かの代理としてではない。《快楽には進歩がない》、あるのはただ交替のみ。(『彼自身』)

しかもわたくしの故郷の町はいまでも路面電車がある。まああまり贅沢はいうまい。

100メートル先の路面電車の電停の向う側にはにかけうどんのおいしい店があった(天ぷらうどんではダメなのだ、そこの店は)。あの、うどんが見えないくらいにのせられた大きく切ったかつおぶしの香ばしいにおい! 母が病気のときは、しばしば出前してもらった。いまではそんな贅沢なかつおぶしの使い方はないだろう。そもそも鰹節削り器自体がほとんど存在しなくなっているはずだ。




プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別にすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックの〔グランド・ホテルの〕ナプキンの話しにうまく乗せられることはないのだ。二度と戻って来るはずのないもののうちで、私に戻って来るもの、それは匂いである。たとえば、バイヨンヌですごした私の幼い頃の匂いがそうだ。《曼荼羅》の囲み込まれた世界のように、バイヨンヌのすべてが、ある複合的な匂い、つまりプテ ィ=バイヨンヌ(ラ・ニーヴとラドゥールにはさまれた界隈)の匂いの中に集積されている。サンダルつくりたちが加工している紐、暗い食料品屋の店、古木の木蠟、空気の通りの悪い階段用の井戸穴、バスクの老婆たちの、巻髪を止める布製の椀状のかぶりものに至るまで黒ずくめの喪服の黒さ、スペイン油〔匂いの強いオリーブ油〕、職人の仕事場や小さな商店(製本業、金物屋)の湿気、公立図書館の髪についたほこり(私がスエトニウスやマルティアリスの作品中にある性欲を知ったのはその図書館においてであった)、ポシエールの店のピアノ修理のための接着剤、町の特産のショコラの香り、そういういっさいの、固形の、歴史的な、いなか風の、フランス南部風のもの。(《口述筆記》。)

(さまざまの匂いを思い出して胸が高鳴っている、つまり私は年をとったのだ。)(『彼自身』)