2017年3月28日火曜日

アポロンの玉を食う

デメテールへの愛」で記したことをいくらか焦点を絞ってもうすこし考えてみる。

マゾッホは、偉大な人類学者でヘーゲル派の法律学者でもある同時代人のバッハオーフェンを読んでいた。(……)バッハオーフェンは、発展段階を三つ識別していたのだ。第一のものは、古代ギリシャの娼婦的な段階、アフロディテ的な段階であって、繁茂した沼の渾沌のうちにかたちづくられ、女と男たちとの入り乱れ気分まかせな関係からなっているが、そこでは父親は「人格」を持たなかったので、女性的原理が支配していた(とりわけアジアの女王として扱われる娼妓が代表するこの段階は、神聖なる売春という制度のうちに生き伸びることになるだろう)。第二期は、大地の女神デメテール的なもので、アマゾーヌ的社会にその黎明期を迎える。それは、女権的秩序、苛酷な農耕的秩序を創設するが、その秩序の支配下では沼沢地は感想しきっている。父親なり夫なりも一定の地位を獲得しはしたものの、女性の専制下におけれつづけていたことにはかわりがない。最後に、家父長的な、もしくはアポロン的な体系が力を帯びるが、それがアマゾーヌ的な堕落形態、あるいはディオニソス的でさえある堕落形態のうちに母権制を退化させることもままあったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

このドゥルーズの記述は、バッハオーフェンの記述では次のようになっている。

第一段階:アフロディア Aphrodite的女性支配
(中間段階:アマゾーヌ Amazon的男性排除)
第二段階:デメテール Demeter的女性支配
(中間段階:ディオニソス Dionysus的女性解放)
第三段階:アポロン Apollon的男性支配

「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描」(松田義幸・江藤裕之,2007, PDF)の注釈を掲げれば次の通り。

第一段階は Aphrodite的女性支配である。バハオーフェンはどの民族においても、無秩序な両性関係と娼婦性的生活の存在した痕跡のあったことを指摘している。正確に言えば、バハオーフェンは、この第一段階を母権制以前の低次の段階と位置づけ、第二段階以降を紀律化された高次の段階と区別している。人類の始原において無秩序な両性関係と神殿娼婦が存在していたことを記述している。(……)

中間段階は Amazon的女性支配である。始原の無秩序な両性関係は、いずれ、男性の横暴な性欲によって品位を奪われることになる。女性たちは安定した地位と純粋な生活を求め絶望の果てから武器を取り、抵抗とへ駆り立てられた。これが Amazon的女性支配にならざるを得なかった背景である。Amazon的女性支配は、月女神に従い、永遠に満ちかける月の表情 は、まさに死をもたらす恐ろしい Gorgonの三姉妹の表情であった。しかし、Aphrodite的女性支配、Amazon的女性支配を支えた食料事情は、野性的・自然的生産に依存し、「母なる大地」から成長する「野生生物」頼りの泥土的沼沢地生活であったが、やがて農耕生産に移行していく。

第二段階は、Demeter的女性支配である。穂や穀粒、根菜、果樹などの植物を中心にした農耕生活は、 農耕神の Demeterと女家長の女性支配の下での紀律ある婚姻制度を生み出すことになった。農耕生活には 男手を必要とする。そこで、厳格な紀律に従う婚姻制度ができたのである。仕事の手順はすべて女性が決める。それは、季節、月、週がすべて、「宇宙原理=自然原理=女性原理」でとらえることができるからである。しかし、バハオーフェンによれば厳しい紀律の Demeter的女性支配と自由で自然な Aphrodite的女性支配との間に長い対立があったのであり、葡萄栽培の普及と葡萄酒の祭りの Dionysus宗教が広がるにつれて、女性たちを再び Aphrodite的性の解放に目覚めさせたのである。

中間段階は Dionysus宗教支配である。Demeter的 女性支配は、婚姻制度を敷くことにより、男性に家族、社会における役割を与え、男性もよくその期待に 応えた。しかし、Dionysus宗教は、女性たちを Aphrodite的原理に回帰させることになり、男性たちの尊厳を奪いさってしまったのである。ここに紀律ある Demeter的母性を象徴する麦穂とパンが、再び生殖の神の豊かな果実を象徴する葡萄酒の前に屈したのである。Aphroditeと Dionysusらが手を結んだミルクと蜜と水が再び官能的なトランス・エクスタシーの境地を与えてしまったのである。男性たちは、 Demeter的原理の下で得た幸せをいかにして取り戻すか。そこで第三の Apollon的段階への移行が始まるのである。

第三段階は Apollon的男性支配の原理である。紀律を遵守するということは精神性、道徳性の問題である。男性たちは男神を創造し、男神に支えられながら精神性の高い「父性的―天界的」原理を立てて父系で家父長制(patriarchy)の父権制社会への転換を企てたのである。 バハオーフェンは、母権制社会から父権制社会への移行を文明の進歩と認識しておりながら、母系による女性支配の母権制に強い愛情を寄せている。

ドゥルーズはフロイトを援用して次のようにも記している。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なものの基本的イメージに符合している。

すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。

―ーそれから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。

――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。この第二番目の母親も、また最後に姿をみせるもののように思われる。滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧するものだからである。彼女は最終的な勝利者となる。

それ故フロイトは、『三つの箱の選択』の中で、このタイプの母親を、多くの神話的・民族伝承的な主題に従って提示しているのである。「それはまさしく母性そのものであって、そのイメージに従って男性が選ぶ恋する女性なのであり、煎じつめれば、改めて男性を迎え入れる<母親>としての<大地>なのである……。宿命的な娘たちのうちで、この第三番目のもののみが、すなわち沈黙する死の女神だけが、男をその胸の中に迎え入れることになるだろう」。

だが、この母親が占めるべき真の位置は、避けがたい展望図のもたらす幻想によって必然的に転移させられているとはいえ、なお両者の中間にすえられるべきものなのだ。そうして視点に立ってみると、ベルグレールの次のごとき概括的問題提起は完全に根拠のあるものだと思われる。すなわち、マゾヒスムに固有の要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像なのだというのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

前回、このように引用して、それと敢えて関係づけずに次の図を掲げた。


※このラカンに依拠する図の意味合いについては、「二種類の超自我と原抑圧」を見よ。

さて、敢えてバッハオーフェンの考え方と、上のラカン由来の図を結びつけるならどうなるか。

第一段階:アフロディア Aphrodite的女性支配
(中間段階:アマゾーヌ Amazon的男性排除)
第二段階:デメテール Demeter的女性支配
(中間段階:ディオニソス Dionysus的女性解放)
第三段階:アポロン Apollon的男性支配

◆まずアポロン的男性支配をS1、すなわち「父の法」とすることはできる。

もっともラカンの S1 とは「(父なる)超自我」でありながら、自我理想でもある。

超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School

だがミレールは次のように言っていることを注記しておこう。

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDFーー自我理想と超自我の相違(基本版)

実際、ラカンの叙述をいくらか追っていると、自我理想・超自我・父の名の区別が判然としなくなるところがある。

私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)

la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、le séminaire XVIII. 10 Mars 1971)
私に教えを促す魔性の力…それは超自我だ。

Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (le séminaire XXⅣ 08 Février 1977)

ーー1977年とはラカン最晩年である。ようは生涯、フロイトの「超自我」(あるいは「父の名」)を問い直し続けていたのである。

しかも父の諸名、それにかかわるサントームという概念もある。

父の諸名 les Noms-du-père 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことである。(ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

ここではミレール、ポール・バーハウの上の記述に則る。

その観点からは、アポロン的男性支配とは、まずは自我理想、あるいは父の名にかかわり、その裏に「父なる超自我」あるいは「超自我」があるとすることができる。


◆他方、デメテールを安易にS(Ⱥ)、「母の法」とすることはできない。というのは、S(Ⱥ)とは、Ⱥ(原トラウマ)の境界表象に過ぎず、つまり欲動の本源的アナーキー Ⱥ の仮面に過ぎないのだから。

初期フロイト概念「境界表象 Grenzvorstellung」とは、中期フロイトの「欲動の心的(表象的)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes」であり、そのまま後期フロイトのタナトスにかかわる。

デメテールの特徴の記述を再掲しよう。

第二段階は、Demeter的女性支配である。穂や穀粒、根菜、果樹などの植物を中心にした農耕生活は、 農耕神の Demeterと女家長の女性支配の下での紀律ある婚姻制度を生み出すことになった。農耕生活には 男手を必要とする。そこで、厳格な紀律に従う婚姻制度ができたのである。(「古代母権制社会研究の今日的視点」)

これはラカンの母の法の記述、(母なる)超自我の記述とは合致しない。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

 むしろ第一段階のアフロディア (あるいはアマゾーヌ)が、S(Ⱥ)に相当する。

第一段階は Aphrodite的女性支配である。バハオーフェンはどの民族においても、無秩序な両性関係と娼婦性的生活の存在した痕跡のあったことを指摘している。
中間段階は Amazon的女性支配である。始原の無秩序な両性関係は、いずれ、男性の横暴な性欲によって品位を奪われることになる。女性たちは安定した地位と純粋な生活を求め絶望の果てから武器を取り、抵抗とへ駆り立てられた。これが Amazon的女性支配にならざるを得なかった背景である。(「古代母権制社会研究の今日的視点」)

アフロディアは「原穴の名」と呼ばれるべきものに近似する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ラカンによる「穴trou」の意味の核心は、トラウマである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

とすればデメテールとは何とすることができるのか。わたくしはサントームという名をここで口にだす。

ラカンのサントーム Σ には、大きくいって二つの意味合いがある。

・もうこれ以上還元できない原抑圧(原固着)としてのサントーム。これはS(Ⱥ)に相当する。

・想像界・象徴界・現実界の縫合機能としてのサントーム。農耕の神デメテールはこの「縫合」機能としてのサントームに近似する。

ョイスについてのセミネールが明示しているのは、サントームが父の名の役割を取り得ることだ。ラカンは、皆にジョイスの例に従い〈大他者〉の欠如の場所に自身のサントームを創造するようにと勧めている。この創造行為の目標は、父の名のシニフィアンなしで〈大他者〉を機能させることである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq“Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way”、2002)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008

この二つの指摘は、ラカンの次の文にもかかわる。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)
分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化s'identifierではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつ garanties d'une espèce de distance, à son symptômeである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。(ラカン、S24, 16 Novembre 1976)

こうして次の図が書ける。




前回次のように記した。

かつてはS1はS(Ⱥ)に蓋をしていたのだが、第一次世界大戦の「西欧の父の危機」(ヴァレリーの『精神の危機』)、1968年の学園紛争の実質的な「権威の死」、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」により、S1はボロ屑となった。

ーー現代社会で肝腎なのは西欧規範の「アポロン」ではない。「デメテール」である。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ーーミレールによれば「母の欲望」とは、「母なる超自我」、あるいは「母の法」とほぼ等価である。

いずれにせよ「父の名 S1」は「母の穴の名 S(Ⱥ)」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、「原トラウマ Ⱥ」≒「本源的な欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires」(ラカン)は飼い馴らされる。「父の名」がないなら、かわりのサントームΣでふさがなければならない。

穴Ⱥとはようするにブラックホールのことである。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ヴァギナ・デンタータ(有歯膣)と言ってさえよい。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ヴァギナデンタータの名が、アフロディアである。ドゥルーズの叙述なら《原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親》である。

ここでさらにドゥルーズを再掲しよう。

ベルグレールの次のごとき概括的問題提起は完全に根拠のあるものだと思われる。すなわち、マゾヒスムに固有の要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像なのだというのである。(『マゾッホとサド』)

アフロディア的母 S(Ⱥ) とエディプス的アポロン S1 の中間に位置する《冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像》、それがデメテールでありサントーム Σ である。

以上、「思いがけなく」論理的にはこうなるということを示した。だが《こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない》(藤枝静男)。

アポロン(近代的合理精神)の玉を食っただけである。

次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970年)