私は政治的には天皇制は廃止されて当然だと考える常識人(浅田彰のドタバタ日記、2008年)
ところで、〈あなた〉は「常識人」だろうか?
わたくしの母は天皇嫌いだったが、実家には神棚があった。母が拝んでいた記憶はないから、父の趣味だったのかもしれないが(そういえば神棚の世話は父がしていた)。だが母は桃の節句には雛人形を嬉々として飾った。
結婚式もそうですが、お雛様も向かって左に男雛、右に女雛と決まっています。ところが、大正時代以前と、現代でも京都では、これが逆なのです。 日本の礼法では向かって右が上座だったので、雛人形も男雛が右でした。 俗に京雛と呼ばれ、雛人形のお内裏様は天皇・皇后の姿を模しています。 この左右が入れ違ったのは昭和の始めでした。 昭和天皇の即位式が紫宸殿で行われた時、欧米にならい向かって左に天皇陛下、右に皇后陛下がお並びになったことから、 当時の東京の人形組合がお雛様の左右を入れ替えて飾ることに決めたからです。(雛人形)
もちろん正月には(母も)神酒を飲み神社に詣でた。わたくしは旧正月祝いの国に住んでおり、この国では一月一日は一年の始まりというだけだが、それでも日本酒はなんとなく飲みたくなる。これは天皇制が染み付いているせいではなかろうか。
その意味で「土人の国」の土人であることから、一生免れそうもない。
実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。(図像学というアリバイ 浅田彰、2001)
中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。
柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)
…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。
中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。
柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。(『柄谷行人 中上健次全対話』)
天皇とは母系制の問題とある。ラディカル・フェミニストであることがヨクシラレテイル蚊居肢散人は、《天皇制は廃止されて当然だと考える常識人》でありえそうもない・・・
もっとも最近、溝口睦子さんの著書により皇祖神の起源は、母性的な天照大神(アマテラスオオミカミ)ではなく、男根的な高御産巣日(タカミムスヒ)だとされているそうだが。
◆「精神構造」論としての天皇制 -赤坂憲雄の天皇制論の整理・検証を通して-(長山恵一、2016、PDF)
溝口(『王権神話の二元構造』2000)によれば、古い皇室の皇祖神はもともとタカミムスヒであり、記紀編纂の直前の天武、あるいは持統朝といった新しい時代にアマテラスが皇祖神の地位に就いたことは学界の定説になっていると言う。
ではなぜ、タカミムスヒからアマテラスへという皇祖神の移行・転換が 7 世紀末から 8 世紀にかけて宮廷で進行したのかについて、溝口は当時の国際情勢と国内情勢との関連で次のように述べている。
7 世紀後半の日本(天智天皇~天武天皇の時代)は白村江の惨敗と朝鮮半島からの全面撤退、さらには新羅・唐の日本への侵攻の脅威といった国家存亡の危機的な状況に直面していた。こうした東アジアの緊張関係の中で、日本は古い部族的な国家体制(伴造制・国造制といわれる)から脱却して、直接に国家が全国津々浦々の人民を掌握する政治体制の確立に迫られていた。大化の改新以降、中国(黄河文明)文化が流入していた当時の日本は、天武・持統天皇の時代に急速に唐の政治制度や思想を取り入れて律令天皇制を作りあげた。天武・持統朝の政治大改革の中で天皇家の守護神・皇祖神の変更が行なわれたと溝口は言う。
タカミムスヒは天皇家に直属する伴造系という氏にのみ親しまれ信奉された男性神であり、一般には馴染みの薄い旧体制の党派的色彩の強い朝鮮由来の新来のカミだった。それに比して、アマテラスはタカミムスヒより古く、南方的な海洋的・水平的世界観をもつ農耕的な太陽神(女性神)だった。アマテラス神話群はイザナキ・イザナミ、アマテラス・スナノヲなど豊かな内容を有しており、それは皇室と一体であった伴造系ではなく、地域に基盤をもち、半独立的な存在であった臣系・国造系の氏の神話と祖先神だった。天武・持統朝は臣系・国造系の氏の協力を得て全国統一の達成という大改革を成し遂げるためにも、宗教改革(神話改革)政策として、アマテラスをタカミムスヒと並立・融合させて新しい神祇信仰(天神・地祇)の中心の国家神に据えようとしたのである。つまり、天神としてのタカミムスヒと地祇としてのアマテラスの融合である。こうした政治的配慮のもとに、もともと全く異質な世界観を持った二つの神話群(ムスヒ系神話群とイザナキ・イザナミ系神話群)が記紀神話の中で接合された。
とはいえわれわれの天皇の「表象」は、やはり農耕神だろう。すなわち、大地の女神デメテール Demeter である。
このデメールの語源は次のようなものだそうだ。
Demeter はオリンポス神話では農耕の女神と言われているが、母権制社会では、女陰を通じての「創造→維持→破壊」 「処女(Kore )→母親(Demeter )→老婆(Persephone) 」の三相一体の女神であった。De はギリシア語の Delta の三角形で「女陰」を表わしていた。Delta はサンスクリット dwr 、ケルト語duir 、ヘブライ語 daleth で、誕生、死、性的楽園の入り口を意味した。meterは「母親」の意味である。(「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描」(松田義幸・江藤裕之,2007, PDF)
ここにはドゥルーズ=マゾッホがいる。
マゾッホは、偉大な人類学者でヘーゲル派の法律学者でもある同時代人のバッハオーフェンを読んでいた。(……)バッハオーフェンは、発展段階を三つ識別していたのだ。第一のものは、古代ギリシャの娼婦的な段階、アフロディテ的な段階であって、繁茂した沼の渾沌のうちにかたちづくられ、女と男たちとの入り乱れ気分まかせな関係からなっているが、そこでは父親は「人格」を持たなかったので、女性的原理が支配していた(とりわけアジアの女王として扱われる娼妓が代表するこの段階は、神聖なる売春という制度のうちに生き伸びることになるだろう)。第二期は、大地の女神デメテール的なもので、アマゾーヌ的社会にその黎明期を迎える。それは、女権的秩序、苛酷な農耕的秩序を創設するが、その秩序の支配下では沼沢地は感想しきっている。父親なり夫なりも一定の地位を獲得しはしたものの、女性の専制下におけれつづけていたことにはかわりがない。最後に、家父長的な、もしくはアポロン的な体系が力を帯びるが、それがアマゾーヌ的な堕落形態、あるいはディオニソス的でさえある堕落形態のうちに母権制を退化させることもままあったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
ドゥルーズによるバッハオーフェンの三段階説は、実際には、その中間段階の過程がある。
第一段階:Aphrodite的女性支配
(中間段階:Amazon的男性排除)
第二段階:Demeter的女性支配
(中間段階:Dionysus的女性解放)
第三段階:Apollon的男性支配
(中間段階:Amazon的男性排除)
第二段階:Demeter的女性支配
(中間段階:Dionysus的女性解放)
第三段階:Apollon的男性支配
マゾッホによる三人の女性は、母性的なものの基本的イメージに符合している。
すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。
―ーそれから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。
――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。この第二番目の母親も、また最後に姿をみせるもののように思われる。滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧するものだからである。彼女は最終的な勝利者となる。
それ故フロイトは、『三つの箱の選択』の中で、このタイプの母親を、多くの神話的・民族伝承的な主題に従って提示しているのである。「それはまさしく母性そのものであって、そのイメージに従って男性が選ぶ恋する女性なのであり、煎じつめれば、改めて男性を迎え入れる<母親>としての<大地>なのである……。宿命的な娘たちのうちで、この第三番目のもののみが、すなわち沈黙する死の女神だけが、男をその胸の中に迎え入れることになるだろう」。
だが、この母親が占めるべき真の位置は、避けがたい展望図のもたらす幻想によって必然的に転移させられているとはいえ、なお両者の中間にすえられるべきものなのだ。そうして視点に立ってみると、ベルグレールの次のごとき概括的問題提起は完全に根拠のあるものだと思われる。すなわち、マゾヒスムに固有の要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像なのだというのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)
いずれにせよわたくしはデルタをひどく愛するので、農耕神を否定することはできない。
彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…
「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」
「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」(ソレルス『女たち』)
ーーデボラは、ソレルスのパートナー、クリステヴァがモデルとされている。
ラカンの最初のエディプス理論とは次のような形で説明されている。母は子供を、ほとんど致死的な deadly 仕方で享楽する。主体は唯一、父の介入を通してのみ、母による潜在的に命取りのlethal 享楽から救われる。
同じ理屈が、三つの宗教書のなかに漸増する形で見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女への不安と憎悪、最後にムスリムのベール等への強制。
すなわち女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない、ということである。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ、と。
事実、享楽と他者とのあいだの、この発達的に基礎付けられる繋がりは、主体にとって享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…
フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということである…。(ポール・バーハウ2009, PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)
左翼系の天皇制廃止論者が、宮廷道化師との批判を蒙らないためには、母権性社会を念入りに研究してからのほうがよいのではなかろうか。あるいは欧米規範の侍僕に陥らないためには。
『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』)
すこし前掲げた、岩井克人の九条改正案は判断保留するにしても、皇室典範の改正案程度にとどめておくべきではないだろうか。天皇制の廃止ではなく、である。
私は、日本の憲法九条と皇室典範は次のように改正すべきだと考えています。
憲法九条については、日本国民は、一、自らの防衛、二、国連指揮下にある平和維持活動、三、内外の災害救助に活動、の三つの目的にその活動を限定した軍隊を保持することを世界に明言した内容に改正します。
皇室典範については、一、皇族は男女ともに皇位継承資格をもち、二、皇位継承者はその資格を放棄する権利をもち、三、天皇自身も皇位を放棄する権利をもつ、という内容に改正します。皇位継承の資格を放棄した旧皇族は、一国民として、参政権をはじめとするすべての市民権を享受しうることになります。
憲法九条の改正も皇室典範の改正も私がはじめて言い出したことではありません。いずれも左右のさまざまな政治的立場から繰り返し主張されてきたことです。ただ私は、 この二つの改正案をどちらも欠かせない一対のものとして提示したいと思っているのです。なぜ私がそう思っているのかは、これから順を追って説明していくつもりです。(憲法九条と皇室典範改正案(岩井克人))
この改正案を実施すれば、宮廷道化師左翼たちの繰り言である「無責任の体系」(丸山昌男)の側面は消滅ーー低減するといっておこうーーのではなかろうか。
だが問題は、《皇位継承者はその資格を放棄する権利》があったら、天皇のなり手がなくなるのではないか、という懸念である。おそらく兄弟同士で譲り合って血肉の争いになるのではないだろうか。たとえば次期天皇の来るべき皇后は「いじめ文化」の象徴に、すでに妃の段階でになっている。かの夫婦はホンネではなんとしても皇位をまぬがれたいのではなかろうか。
ところで、いじめとは母系制社会の際立った特徴ということは・・・まさかあるまい?
ノーベル賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンのひとりだったドリス・レッシングは自伝にて次のように言っている。
子どもたちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子どもが悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。(ドリス・レッシングーー「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles」 Paul Verlweghe 2000より孫引き))
これはエディプスの斜陽によってこのような現象が生まれた、という見解である・・・父の権威が弱まれば母系的なものがあらわれるのである・・・
(二種類の超自我と原抑圧) |
父の権威は、S1であり、母系的なものは、S(Ⱥ)である。S(Ⱥ)は、Ⱥの境界表象に過ぎず、つまり欲動の本源的アナーキー Ⱥ の仮面に過ぎない。初期フロイト概念「境界表象 Grenzvorstellung」とは、中期フロイトの「欲動の心的(表象的)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes」であり、そのまま後期フロイトのタナトスにつながってくる。
かつてはS1はS(Ⱥ)に蓋をしていたのだが、第一次世界大戦の「西欧の父の危機」(ヴァレリーの『精神の危機』)、1968年の学園紛争の実質的な「権威の死」、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」により、S1はボロ屑となった。
これが、ラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールの《私たちは、父たちを彼らの役割へと教え直したい世紀のなかにいる》( Colette Soler)の意味である。
もちろん晩年のラカンも同じ意味合いのことを言っている。
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)
で、何がいいたいのか。母権的あるいは多神教的日本にとっての父の名(父の機能)とは何か、という問いである。欧米のサルマネはする必要はまったくないのだ、彼らもコケつつあるのだから(参照:多神教的「父なるレリギオ」のために)。
※続き:アポロンの玉を食う