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2017年3月26日日曜日

三種類の穴埋め師:S(Ⱥ)- I(Ⱥ) - F(Ⱥ)

◆Logic of Sexuation, Ellie Ragland,2012,PDFより




Ellie Raglandはどんな方だったか?



ははあ・・・

彼女は Lacan.com の常連、つまりミレール傘下の方ではある。すなわち信頼するに値する。わたくしはいくつか小論を読んだだけだが、たとえば、最近の「What Lacan thought Women Knew: The Real and the Symptom」など素晴らしい。

だがここでは、わたくしにはやや難解なところがある Logic of Sexuation からである。

In his Seminars on James Joyce, Lacan maintained that Joyce sought to fill the void by making the real voice suture all the crevices in being and body: ∅/a.(Logic of Sexuation, Ellie Ragland,2012)。

と彼女は記しているが、この ∅/a という記述に則れば、他のふたつも、Φ/a、−φ/aとなるはずだ。

とはいえ、Φ/a はまだしも、−φ/a は一般には逆の形に記されてきた、a/−φと。

たとえば、ポール・バーハウ2001には次の図がある。


これはいわゆるファルス化された対象aを示しており、a の多様な位置づけのせいでこのように記述されるし、ミレールにもしばしば同様の記述がある。

だが、−φ/aにおける a をリアルな対象a、あるいは穴と捉えれば、−φ/a と記しても、おそらく何の問題もない、とわたくしは思う。すなわち対象aのいくつかある定義のなかの一つは《シニフィアン化される前の、すなわち S(Ⱥ) 以前の Ⱥ 》(Lorenzo Chiesa、2007)であり、このように捉えた場合のaである。

セミネール7の《親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(S7)、つまり《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(S.16)としての対象a、あるいはセミネール11におけるラメラ神話の叙述箇所の《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》としての原リアルな対象a、これらはファルス化された対象aや剰余享楽としての対象a とは異なり、原初の対象a [objets a primordiaux]にかかわる。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a [objets a primordiaux]の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

(究極の)対象a は穴 trou である、とラカン自身も言っている。

C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. (Lacan、S16, 27 Novembre 1968)

とはいえ、ラカン派の方々は、ボロメオの環の図について一般的にあまり饒舌ではない。たとえば次のようなことさえ言われる。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也氏ツイート)

いずれにせよーーEllie Ragland がマニアックなのか否かは知らないがーー、彼女のように空集合マーク ∅を使っている人は初めて見た。

女は空集合なのだから、これも別に何の問題はない。

Mais La femme c'est… disons que c'est « Toutes les femmes », mais alors c'est un ensemble vide, parce que cette théorie des ensembles, c'est quand même quelque chose qui permet de mettre un peu de sérieux dans l'usage du terme « tout ». Ouais…(ラカン、S22、21 Janvier 1975)

そして「一のようなものがある Ya d’l’Un」 とは、女 la femme のことである(参照:「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている)。

Ya d’l’Unは、S(Ⱥ)でもある(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)。

つまり、 ∅ はS(Ⱥ)である。

上に究極の対象aは穴であることを見た。 穴trouとは、Ⱥとも書かれる。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

すなわちボロメオの真ん中のaは、Ⱥとすることができる。

ゆえに、∅/a は、S(Ⱥ)/Ⱥと記すことができる。

次に、「「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」」で見たように、父の名は、I(Ⱥ) とも記せる(ミレールによる Idéal du moi(自我理想)のマテーム)。

とすれば象徴的ファルスΦは、I(Ⱥ)と記してもよいことになる。

さて最後に残った想像的ファルス−φ を、(Ⱥ)を使って記すにはどうしたらいいか?

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S10)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)


F(Ⱥ)と記してみたらどうだろう?






いやあ、実に整然としたーーȺを中心にしたーーボロメオの環である。

もちろんもともとのラカン自身による記述である、S(Ⱥ)をJȺ、I(Ⱥ) をJΦとするのが正当的であるには決まっている。ここでの肝は、JsのポジションにおけるF(Ⱥ)である。




肝とはようするに、フェティシストを自認する蚊居肢散人の正当的なポジションをボロメオの環のなかに見出しえたことである。

われわれの生は、どれかを選択して生きている。Ⱥというブラックホールの吸引力に怯えつつ、なんらかの穴埋めをするために。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ジイドのように、どの穴埋め=コルク栓も取れてしまえば、そこに現れるのは、女性の享楽である。女性の享楽(身体の享楽)は一般的に、S(Ⱥ)とされるが、ここでわたくしが言いたいのは、Ⱥのことである。

女の享楽 la jouissance de la femme は、非全体の穴埋め une suppléance de ce « pas-toute » を基礎としている。彼女は、非全体であるという事実を基礎にして、この享楽にとってのコルク栓 le bouchon を見出す。(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

 この穴埋めの三つのタイプが 、S(Ⱥ)、 I(Ⱥ) 、 F(Ⱥ)である。S(Ⱥ )であれば精神病、I(Ⱥ) であれば神経症、F(Ⱥ)であれば倒錯である。

ーーというわけだが、この図、あるいは注釈は、まったく間違っている可能性が多分にあるので信用しないように。このあまりにも分かりやすく変更された図が、間違っていなかったら誰かがとっくの昔にこう記しているはずである。いまはどこか間違っているのか思案中である・・・

…………

ボロメオの環について、最晩年のラカンは次のように言い残していることを付記しておこう。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

かつまたーー、21世紀のボロメオの環は、腰抜け・妄想家・詐欺師、あるいは脆弱 – 妄想 – 詐欺 Débilité – délire – duperieーー《これが、21世紀の分析臨床上の、《想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対》[Débilité – délire – duperie, telle est la trilogie de fer qui répercute le nœud de l'imaginaire, du symbolique et du réel]である》(ミレール、2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師)、などという話もある。

私が上に記した叙述が正しいとすれば、そしてミレールのいささか過激な記述に依拠すれば、

S(Ⱥ)、すなわち精神病者は、腰抜けー詐欺師としての穴埋め師
I(Ⱥ)、すなわち神経症者は、妄想家ー詐欺師としての穴埋め師
F(Ⱥ)、すなわち倒錯者は、腰抜けー妄想家としての穴埋め師

ということになる。

この三種類の類型とは、各人それぞれ異なった仕方で性関係の不在の穴埋め(昇華)をして生きているという意味であり、タイプが異なるだけで(上に記した混合型だけではなく純粋型もあるだろうが)、穴埋め師から免れることはない。

…………

※付記

ボロメオの環のJȺは、S(Ⱥ)と等価である。このJȺについてもラカン派で饒舌な人は少ない。その少ない例外のなかで、ロレンツォ・キエーザ2007は、JȺ をサントームとしている。サントームは、S(Ⱥ)である(ミレール、2002)。

JȺは、大他者の享楽 la jouissance de l'Autreでは決してないことに注意。そうではなく「他の享楽 l'autre jouissance」である。

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)