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2017年3月30日木曜日

資本家の言説について

質問をもらったが、資本家の言説については実のところあまり語りたくない。

解釈者たちが語り始めたのもごく最近のことで、信頼がおけるかどうかはわからない。あのジジェクさえ資本家の言説という言葉を一度も使用していない。

(※追記:上のように記したが、「Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? Slavoj Žižek」pdfというごく最近の論に行き当たった。いつの論から判然としないが、Tomšič, 2015の引用があるので、それ以降のものである。)

前回、基本的な前提条件として、「主人の言説」と「資本家の言説」は、「抑圧の言説」と「原抑圧の言説」と記したのは、次の考え方に由来する。
結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。

他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本幻想の形成化に相当する。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007)

二種類の原抑圧がある。主人の言説とは、父性隠喩にかかわる。これは母の欲望を抑圧する。主人の言説が機能しなければ、裸の「原抑圧」とでもいうものーーこれは「原超自我」にかかわるーーが現われる。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

裸の原抑圧とは、ラカンが後年、《原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier》と 言っていることにもかかわる。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う大食漢 La gourmandise dont il dénote le surmoi は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文化の中の居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。(ラカン、テレビジョン、向井雅明試訳、1973、一部変更)

このところ次の図を提示している。



父性隠喩にかかわるエディプス的原抑圧にかかわるのは、S1とS(Ⱥ)のあいだの線であり、他方、最初にある原抑圧・前エディプス的な原抑圧とは、S(Ⱥ)とȺのあいだの点線(初期フロイトはこれを境界表象Grenzvorstellungと言っている)と想定できる。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

この時期のフロイトには原抑圧概念はないが、上の文の「抑圧」は「原抑圧」と等価である(ポール・バーハウ1999による)。

このような意味で、わたくしは資本家の言説は原抑圧の言説としている(これは誰もそう言っていないので、わたくしの仮定である)。

とはいえ大きな依拠は次の文である。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012

いずれにせよロレンツォ・キエーザの二種類の原抑圧の指摘は、ラカン派内でさえいまだあまり理解されていない。

コレット・ソレールは、ほぼ同じことを指摘しており、いままでの理解を諫めている。

精神病における欲望の問題は別の話です。それはいかに誤った(身丈に合わない)教義が臨床的事実の無視に導くかを示すよい例です。

父は去勢不安にて欲望を生みだすために必要不可欠であるという前提から始めて、私たちは他の分析家が、精神病は欲望を締め出すという結論してしまうのを見ます。けれども、精神病の最も顕著な人物像を観察すれば、彼らが欲望を欠如させているなどということがどうやって支持しうるというのでしょう?(Interview with Colette Soler for the “Estado de Minas” newspaper September 10, 2013

向井雅明氏でさえ、2010年になってようやく二種類の原抑圧に相当するものを指摘し始めているように、過去のラカン派辞典のたぐいはほどんどすべて二種類の超自我にかかわる記述が欠けている。

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。向井雅明『自閉症と身体』2010、PDF)

驚くことに「原抑圧」をめぐっては、現在のラカン派精神分析家の大半よりも1968年のドゥルーズの方が先行していることになる。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる"正式の"抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳)
……そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉un refoulement dit « primaire » と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

※参照:二種類の超自我と原抑圧

…………

さて核心の「資本家の言説」だが、ラカンは実のところこの言説についてわずかしか語っていない。だから注釈者たちに依拠するよりほかはない。

わたくしが当面依拠しているのは次の二つの論文。だが、全面的に信頼しているわけではない。

①capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf
②Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf

とはいえ日本の注釈者たちがほとんど分かっていないぐらいは分かる。

たとえば小笠原晋也氏は、まったく分かっていなかった。





実は、まったく知らないようだったので、わたくしが教えたのだが、それにしては資本家の言説をめぐってわかったようなことを繰り返し言っていた人物である。

もうひとり、たとえば藤田博史氏のセミネール録から抜き出そう。

◆セミネール断章 2012年 11月10日講義より、PDF



こっちのほうは重症度は低いが、やはり分かっていない(とわたくしは思う)。

主人の言説から資本家の言説への移行とは次の図である。




核心は主人の言説の上部にある不可能 impossibilitéと、下部にある不能 impuissance が消えてなくなったこと。そしてS1と$のポジションが変わり。矢印の向きが下方向になったこと、右下から左上への a→ $ が、倒錯の式 a◊$と近似したものになっていること。

資本家の言説について僅かしか語っていないラカンだが、資本家の言説を特徴づけるのは、排除、去勢の排除だとは言っている。

Ce qui distingue le discours du capitalisme est ceci : la Verwerfung, le rejet. Le rejet en dehors de tous les champs du symbolique avec ce que j'ai déjà dit que ça a comme conséquence. Le rejet de quoi ? De la castration. Tout ordre, tout discours qui s'apparente du capitalisme laisse de côté ce que nous appellerons simplement les choses de l'amour, mes bons amis. Vous voyez ça, hein, c'est un rien (Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)


つまり倒錯もしくは精神病の言説だというふうに、たぶん捉えられる。すなわち前回記したミレールの「ふつうの精神病」、あるいはメルマン派の「ふつうの倒錯」、フロイト用語に依拠すれば「現勢神経症」にかかわる言説であるだろう。

資本家の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)

たとえば資本家の言説の $ は消費者、S1は資本もしくは市場、S2は商人・製造者、aは剰余価値と置ける。

だがいくらでもパラフレーズできる。たとえばツイッターとは「ふつうの精神病」あるいは「倒錯」生産装置である。



欲望する主体$ はツイッター装置 S1に書き込む。するとそれをツイッター社交界住人である他者 S2 が受け取り、反応する(ファボ、リツイート、メンション、フォロワーの増減等々)。これが剰余価値aであり、欲望の主体はそれを受けてツイートの再生産とその半永久的な循環が生じる。

本来のコミュニケーションの不可能 impossibilitéと不能 impuissanceを否認した主体は、自分の鳥語がまともに受け取られていると錯覚してしまう。これはまさに倒錯装置である。

リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。(ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

以上、もちろんわたくしの記していることも誤謬があるかもしれない。

※より詳しくは、「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」を参照のこと。