…………
彼独特の訳語による訳だが、 一般に流通している訳語を使用すれば、「シニフィアン、それは享楽であり、ファルスはそのシニフィエに過ぎない」、となる。
ここで、ことさら訳語にこだわるつもりはない。「徴示素」、「悦」、「被徴示」、それぞれとてもすぐれた訳語だと思う。
ところで、彼はツイッターにても、ほぼ同じことをくり返している。それは、ジャック=アラン・ミレール批判の文脈においてだ(参照:2014.9.13)。
意地悪く、「ファルスはそのシニフィエに過ぎない」が「ファロスはその被徴示にほかならない」に移行している理由を追及してもいいが、わたくしはどちらかというと慎ましいほうなので、やめておこう・・・
さて、わたくしはーー何度もくり返すがーーミレールファンでもなんでもない。ラカン派でさえない。もともとは、主にジジェクの文章を読むなかで、判然としない箇所を探ってみるということをしはじめただけだ。
ところで、小笠原氏が指摘している三つのミレール批判(一つ目と二つ目は、さきほどのリンク元を参照のこと)は、一般に流通しているーージジェクやフィンクなどによるーーラカン解釈とは正反対のものだ。
一つ目と二つ目は、明らかに、小笠原晋也氏の誤謬であり、そのうちの一つは、彼自らそれを認めているとしてよい。
それは、《le a est de l'ordre du réel 「a は,実在の位のものである」》にかかわる。
ーーま、これ自体、児戯に類する誤読だったのだが、大いなる誤謬の可能性を指摘されてから、一年近くかかってようやく認めている。
二つ目の誤謬は「とんでも」であり、ここでは言及しない。
だが三つ目はどうか? これは彼のハイデガー流ラカンの考え方の核心、 a / φ barré にかかわる。
ところで、このセミネール19 の命題を、Geneviève Morel は次のように説明している。
Geneviève Morel の解釈が正しいであろうことの裏づけは、「二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」にて記した。
ラカンは、ファルスの彼方には Au-delà du phallusは身体の享楽 la jouissance du corpsがあると言っている。この「身体の享楽」が、「他の享楽」(すくなくとも、そのうちの一つ)である。
セミネール19の叙述に依拠して、自らの核心の考え方を示しているにもかかわらず、l'Autre jouissanceに無知であるとは!
セミネール19には、l'Autre jouissance では直接ないが、autre jouissance… という語が次ぎのように現われる。
他の享楽とは、結局なにか? それはまずはなによりも、象徴界(シニフィアンの世界)には存在しないーー言葉で言い表わせないーーが、機能するものである。
ファルス享楽とは、たとえば性交時のオーガズムに代表されるように、象徴界の出来事である。だがそれ以外の享楽があるのだ。
そして、わたくしは、(a)やȺ のやや難解な概念ではなく、欲望と主体という基本的な概念でさえ、小笠原氏は、間違っているーー遠慮していえば、大いなる誤謬の可能性を指摘している。
それは、「ラカンのテキストの「痴呆的」解釈」、「今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない」などで記した。
以上。
…………
※追記
彼はすこし突っこんだ質問をすると、次のようにいう人物だよ
このテイタラクでありながら、次のようにも言うんだな
いやあ、それにしても、じつに興味ぶかい人物であるには相違ない。なにか、「ひどい症状」を抱えた人物とみるかぎりはね・・・
“le signifiant, c'est la jouissance, et le phallus n'en est que le signifié” (Lacan, S.19,1971-72).
“徴示素は悦であり,phallus はその被徴示にすぎない.”(小笠原晋也『ハィデガーとラカン』)
彼独特の訳語による訳だが、 一般に流通している訳語を使用すれば、「シニフィアン、それは享楽であり、ファルスはそのシニフィエに過ぎない」、となる。
ここで、ことさら訳語にこだわるつもりはない。「徴示素」、「悦」、「被徴示」、それぞれとてもすぐれた訳語だと思う。
ところで、彼はツイッターにても、ほぼ同じことをくり返している。それは、ジャック=アラン・ミレール批判の文脈においてだ(参照:2014.9.13)。
…… jouissance = réel. 悦 = 実在.この解釈に準拠しつつ,Jacques-Alain Miller はしばしば,A / J barré という学素を黒板に書いていました.A は,徴示素の場処としての他 A です.J は jouissance です.
三番目のものから検討すると,1971-72年の Séminaire ...Ou pire で Lacan はこう言っています: le signifiant, c'est la jouissance, et le phallus n'en est que le signifié.
「徴示素は悦であり,ファロスはその被徴示にほかならない.」この命題は,我々の学素 a / φ barré を文字どおりに表言しています.a は,四つの言説においては le plus-de-jouir 「剰余悦」です.φ barré は,書かれぬことをやめない徴示素ファロスです.
意地悪く、「ファルスはそのシニフィエに過ぎない」が「ファロスはその被徴示にほかならない」に移行している理由を追及してもいいが、わたくしはどちらかというと慎ましいほうなので、やめておこう・・・
さて、わたくしはーー何度もくり返すがーーミレールファンでもなんでもない。ラカン派でさえない。もともとは、主にジジェクの文章を読むなかで、判然としない箇所を探ってみるということをしはじめただけだ。
ところで、小笠原氏が指摘している三つのミレール批判(一つ目と二つ目は、さきほどのリンク元を参照のこと)は、一般に流通しているーージジェクやフィンクなどによるーーラカン解釈とは正反対のものだ。
一つ目と二つ目は、明らかに、小笠原晋也氏の誤謬であり、そのうちの一つは、彼自らそれを認めているとしてよい。
それは、《le a est de l'ordre du réel 「a は,実在の位のものである」》にかかわる。
さて,誤謬や矛盾に陥ることを恐れずに,先に進みましょう.というのも,わたし自身,『ハィデガーとラカン』に書いたことが部分的に過っていたことに気づいたからです.それは特に,l'objet a est de l'ordre du réel という命題に関してです.
1965-66年の Séminaire XIII L'objet de la psychanalyse[精神分析の客体]の1966年1月5日の講義において Lacan は「a は,実在の位のものである」と初めて公式化します.
そして,この「実在」は,厳密に,1974-75年の Séminaire XXII RSI において Lacan が実在を ex-sistence と定義したとおりに取るべきです.(2015.7.12)
ーーま、これ自体、児戯に類する誤読だったのだが、大いなる誤謬の可能性を指摘されてから、一年近くかかってようやく認めている。
二つ目の誤謬は「とんでも」であり、ここでは言及しない。
だが三つ目はどうか? これは彼のハイデガー流ラカンの考え方の核心、 a / φ barré にかかわる。
「徴示素は悦であり,ファロスはその被徴示にほかならない.」この命題は,我々の学素 a / φ barré を文字どおりに表言しています
ところで、このセミネール19 の命題を、Geneviève Morel は次のように説明している。
ファルスは享楽のシニフィエである J/Φ ――、これが意味するのは、享楽において、我々は唯一、ファルスの意味作用をのみ獲得するということだ。これは、他の享楽が存在したり、主体によって経験されることをを止めることはない。だが、それは、意味作用の外部に、沈黙しており、したがって、指摘したり差異化するのは困難である、ということである。(Geneviève Morel Sexual Ambiguities, 2011)
Geneviève Morel の解釈が正しいであろうことの裏づけは、「二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」にて記した。
《Ça désigne ce qui dans la phrase est « l'autre » [jouissance] ?》と、Patrick Valas版(Staferla版)のセミネールⅩⅩにある« l'autre »が、「他の享楽」である。
ほかにも次ぎのような表現がある。
…il y a une jouissance…
puisque nous nous en tenons à la jouissance, jouissance du corps
…il y a une jouissance qui est… si je puis m'exprimer ainsi parce qu'après tout, pourquoi pas en faire un titre de livre, c'est pour le prochain de la collection Galilée : Au-delà du phallus, ça serait mignon ça - hein ? - et puis ça donnerait une autre consistance au MLF. [Rires]
…une jouissance au-delà du phallus, hein !
なぜ、小笠原氏があのような誤謬をしてしまうのかと言えば、彼は他の享楽をまったく掴んでいないからだ。それは、次のツイートが証する。
さて,ふたつめの問い,l'Autre jouissance について.改めて調べてみると,Lacan 自身は l'Autre jouissance という表現は使っていないようです.(2015.6.28)
@KAIE39 以前に提示した JȺ ≡ S(Ⱥ) と JȺ ≡ φ barré の二つの等価式は,わたしの誤読の産物として撤回します.なぜなら JȺ は jouissance du corps de l'Ⱥutre だからです.以前はこの corps 抜きに考えていました.(2015.8.03)
セミネール19の叙述に依拠して、自らの核心の考え方を示しているにもかかわらず、l'Autre jouissanceに無知であるとは!
セミネール19には、l'Autre jouissance では直接ないが、autre jouissance… という語が次ぎのように現われる。
……qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine qui n'en dépend nullement.(S.19)
他の享楽とは、結局なにか? それはまずはなによりも、象徴界(シニフィアンの世界)には存在しないーー言葉で言い表わせないーーが、機能するものである。
……ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない[ il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique]》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)
ファルス享楽とは、たとえば性交時のオーガズムに代表されるように、象徴界の出来事である。だがそれ以外の享楽があるのだ。
そして、わたくしは、(a)やȺ のやや難解な概念ではなく、欲望と主体という基本的な概念でさえ、小笠原氏は、間違っているーー遠慮していえば、大いなる誤謬の可能性を指摘している。
それは、「ラカンのテキストの「痴呆的」解釈」、「今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない」などで記した。
以上。
…………
※追記
彼はすこし突っこんだ質問をすると、次のようにいう人物だよ
このテイタラクでありながら、次のようにも言うんだな
いやあ、それにしても、じつに興味ぶかい人物であるには相違ない。なにか、「ひどい症状」を抱えた人物とみるかぎりはね・・・