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2016年3月30日水曜日

享楽の氾濫

二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」にて、ファルス享楽 la jouissance phallique /他の享楽 l'autre jouissance を対照させたが、では次ぎの享楽はどうなるのだろうか? --とは捏造された疑問符ではあるが・・・

まず頻出する享楽から。

剰余享楽 la plus-de-jouir
意味の享楽 Jouis-sens

他A の享楽 la jouissance de l'Autre
他Ⱥ の享楽 la jouissance de l'Ⱥutre

女性の享楽 La jouissance féminine

現実界の享楽 la jouissance réel
不可能な享楽 la jouissance impossible



ーーたぶん、これらはどちらか、つまりファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance に(究極的には)区分されうるのではないだろうか・・・ボロメオ結びには目を瞑るべきではないか……(あんなもんは全部対象aの享楽だよ、対象aには五種類あるがね、とおっしゃる方もいることだし・・・「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)

ラカン後期のセミネール、そのなかでも最も注目に値するセミネールXXIIIにて、ラカンは少なくとも四つの異なった享楽概念の形態を活用しているが、にもかかわらず、私の意見では、直接的あるいは間接的に、すべて対象aに繋がっている。(Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan,2007ーー「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)

…………

以下のものだってそうだろう・・・


セミネール17

la jouissance absolue
jouissance de la mère


セミネール18

la jouissance mortelle
la jouissance pure


セミネール19

jouissance sexuelle.
la jouissance de parler
autre jouissance
jouissabsence
jouisseprésence


セミネール20

la jouissance du corps de l'Autre
la jouissance perverse.
la jouissance de « Lⱥ femme »
jalouissance
la jouissance d'une autre
L'économie de la jouissance
jouissance de parole
la jouissance de lalangue


セミネール21

une vague jouissance
La jouissance de la femme
La jouissance du Réel
jouissance privilégiée
jouissance sémiotique
la jouissance corporelle

セミネール22

jouissance de l'autre corps

セミネール23

j'ouis-sens

セミネール24

jouissance extatique


いずれにせよ、ラカンはある時期から jouissance という言葉に取り憑かれていたには相違ない・・・

中井久夫)ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないか とおもったんですけどね。(『シンポジウム』柄谷行人 編・著所収 1988)

わたくしも享楽はきらいなほうではないが、ロラン・バルト程度の定義ですましておきたい心持でいっぱいだ・・・

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。[ la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive.] (『彼自身によるロラン・バルト』ーー「話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant」)

ファルス享楽 la jouissance phalliqu eとは、結局はファルス欲望である。そしてそこから漂流するものが、他の享楽 l'autre jouissance である、とわたくしのような単純な頭は思いたくなるものだ・・・

…………

※以下、ジャック=アラン・ミレール、2012を附記(見直してないので、原文(英文)をかならず参照のこと)。

…シニフィアンとは、共有されるものだ。他方、対象a 自体は、主体に属する。ラカンはこれを、セミネール16、D'un Autre à l'autre で強調している。注目されなければならない、ここでの大文字の他者は、不定冠詞 un 、小文字の他者は、定冠詞 le を持っていることを。これが示すのは、大文字の他者、〈他者〉の場、それは全て all にとってのもので、対象a は単独的 singular であることだ。

前期ラカンの教え、最初の10のセミネールまでの教え、それは大他者 l'Autre を言祝いでいる。第二のステージでは、大文字の A としての un Autre と小文字の a としての l'autre の分節(詳述)化に打ち込んだ。教えの第三のステージ、我々はそれを後期と呼ぶが、小文字の他者の側から・単独性の側から始まっている。

したがって、ラカンは最初の展望を裏返したのだ、かつての大他者の展望を。すなわち規則・社会的無意識としての無意識を。…そして、最初のステージの裏側へ移行し、皆にとっての個別的なもの、すなわち、単独性へと向かった。単独性が意味するのは、普遍性には求め得ない何かということだ。私はこの証拠を見出す。後期ラカンの教えは自閉症(自閉性)の問題に取り憑かれているという事実に。自閉性が意味するのは、〈他者〉ではなく、〈一者〉が支配的であるということである。

前期ラカンの教えは、大文字の他者を、基本的所定のものとして、取り上げた。そこには、共通のものとしての言語がある。規則がある。血統の、自動作用の、徴示する signifying 布置の規則がある。共有の文化において生まれる主体、そして無意識はこの骨組みのなかに位置づけられねばならない。

しかし後期ラカンの教えは、このちゃぶ台をひっくり返す。すなわち、皆にとって個別的なものから前進する。共通のもの・共有されないものから進展するのだ。それは、精神分析の問いが論理的に従ってゆく領域、〈一者〉が支配的になるという領域である。

我々は、この後期ラカンの教えを次のように題しうる、「全ての可能な精神分析にとっての準備段階の問い」と。これは、まさにセミネール24(19 Avril 1977)にて、ラカンが言い得た文脈のなかにある。すなわち、『我々は問いを掲げなければならない、精神分析は「〈二者〉の自閉症」 « autisme à deux »ではないかどうかを知る問いを。

《精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい?……》(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

Il y a quand même une chose qui permet de forcer cet autisme, c'est justement que lalangue est une affaire commune et que… c'est justement là où je suis, c'est-à-dire capable de me faire entendre de tout le monde ici …c'est là ce qui est le garant… c'est bien pour ça que j'ai mis à l'ordre du jour Transmission de la psychanalyse …c'est bien ce qui est le garant que la psychanalyse ne boîte pas irréductiblement de ce que j'ai appelé tout à l'heure « autisme à deux ».》(S.24)


もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。

〈一者〉に与えられた特権性の帰結、〈一者〉の享楽・〈一者〉のリビドーの秘密への特権性とは、精神分析は、ひどく確信をもたらす仕方で現れるということだ、それは、強制(押し付け forcing)として。

前期ラカンの教えでは、精神分析は完全に自然なものとして現れた。すなわち、無意識を統制するなかでのそのポジションを明瞭化する大他者の言説として。他方、後期の教えでは、精神分析は真に謎になる。いかに〈一者〉の享楽のこの強制が可能だというのか?

もし精神分析が強制だとしたら、もし精神分析が自然の逆さになった坂の上にあるなら、そのとき、それはるかに興味深いものとなる。後期ラカンの教えにおいて、精神分析は自閉性の強制である、ーー言語のおかげで。享楽の〈一者〉の強制である、ーー言語の〈他者〉のおかげで。

欲望は、前期ラカンの教えの鍵用語である。すなわち、大他者の欲望。ヒステリーのポジションを再形式化したとき、ラカンはそこに到達した。大他者の欲望、それは言語のなかに刻み込まれている。それは換喩に囚われている。欲望とは、〈他者〉の支えなしでは己れを支えられないカテゴリーである。

しかし、後期ラカンの教えのなかで目まぐるしく多様化した結び目の全ての図式には、〈他者〉の享楽は不在のままだ。欲望とは反対に、享楽は〈一者〉によって支えられている。我々は大他者の享楽をいつも夢見うる。しかし、享楽とは、正統的な身体・〈一者〉の身体につながっている。

(……)これが意味するのは、精神分析特有の治療とは、享楽を解決するためにーーここでの「解決」とは終結という意味だーー、享楽に意味をもたらすようにする強制だということだ。…(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan,2002)

ーー〈他者〉の享楽はあるじゃないかって? あれは身体の享楽のことさ。

L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである)(10 Mai 1967 Le Seminaire XIV