ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。
Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden." (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)
1908年に、ニーチェの妹エリザベートによって、『この人を見よ Ecce homo』が 出版された。すなわちそれを読んでのフロイトの感想である。
フロイトは後年次のように言っている。
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925)
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ところで、今でも代表的なニーチェ論として名高い『ニーチェと悪循環』の核心のひとつは次の文である。
《神の死 mort de Dieu》ーー「責任ある自我のアイデンティティを保証するものとしての神 du Dieu garant de l'identité du moi responsable」--その神の死は、…あらゆる可能な諸アイデンティティへと魂を切り開く。…ニーチェにおいて「神の死」は、「永遠回帰 Éternel Retour」のエクスタシー的刻限と同様に、(散乱する諸アイデンティティの)「魂の調子 Stimmung」への応答である。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
「責任ある自我のアイデンティティを保証するものとしての神」、その神の死とは、ラカンの「大他者の大他者はない」と等価である。
そして神が死んだら女が現われる。
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
このS(Ⱥ) あるいは Lⱥ femme が、ニーチェの「私の恐ろしい女主人」である。
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。
……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
断定的に記しているが、すくなくともわたくしの理解するラカン理論ではそうなる、という意味であり、蚊居肢散人の頭の具合がおかしい可能性を人は疑わねばならない。
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。 La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
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ところでクロソウスキーはこうも言っている、《ニーチェは疑いなく信じた、永遠回帰の思想を抱いて以来、己れが狂気に陥ったと Nietzsche croit sans doute, depuis qu'il a cette pensée, qu'il est devenu fou》
人は、「責任ある自我のアイデンティティを保証するものとしての神 du Dieu garant de l'identité du moi responsable」を否定したら、精神病的になるのである。
これをラカン派では「主体の解任」、あるいは「幻想の横断」と呼ぶ。
〈他者〉の非一貫性の発見は、分析の帰結であり、反映的効果 mirror effect をもたらす。〈他者〉が非一貫的なら、同じことが主体にも当てはまる。したがって、〈他者〉も主体も、そのポジションから転げ落ちる。
これが、ラカンが「幻想の横断」と呼んだものである。ラカンの幻想の式 $◇a を適用すれば、この横断の意味は、主体は菱形紋◇を横切り、失われた対象a に同一化すること、すなわち主体自身の出現 advent の原因に同一化することである。
このようにして、主体は「主体の解任」に到る。すなわち、〈他者〉の不在と主体としての己れ自身の不在を想到するようになる。(バーハウ1998、Paul Verhaeghe、Causation and Destitution of a Pre-ontological Non-entity: 1998)
※参照:主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten
上のバーハウの文にある〈他者〉とは「知を想定された主体 le sujet supposé savoir」と呼ばれるものであり、これは神のことである。《C’est au niveau de ce plus vaste sujet, le sujet supposé savoir…supposé savoir jusqu’à lui…à savoir Dieu. 》(S11, 03 Juin 1964)
つまり主体の解任とは神の死のことである。
そして「主体の解任」において、精神病的な象徴界の非機能化が起こる(参照)。したがって主体の解任が、分析の終りではない。
分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。
En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)
この最晩年のラカンによる「分析の終り」も、「私の怖ろしい女主人」と同一化しつつ、それから距離をとること、と解釈できる。ニーチェの肯定や運命愛とはそのことである。
「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(……)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(……)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(……)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。(ニーチェ『権力への意志』原佑訳)
実際、インスピレーションに打たれたとき、自分は圧倒的に強い威力の単なる化身、単なる口舌、単なる媒体にすぎないのだという考えを、ほとんど払いのけることはできまい。啓示という言葉があるが、突然、名状しがたい確かさと精妙さで、人を心の奥底から揺り動かし、それに衝撃を与える或るものが、見えてくる、きこえてくる。…人は探すのではなく、ただ耳に聞くのである。誰が与えてくれるのかを問わず、ただ受けとるのである。稲妻のように、ひとつの思想がひらめく、必然の力をもって、ためらいのない形式で。ーーそのときわたしは、一度として選択したことがない。それは一つの恍惚状態 entzücken である。その凄まじい緊張はときに解けて涙の流れとなり、それに襲われれば足の運びは、思わず、あるいは急激になり、あるいはゆるやかになる。完全な忘我 vollkommnes Ausser-sich-sein の中にありながら、爪先にまで行きわたる無数の微妙なおののきが明確に意識されている。その幸福の深みにあっては、最大の苦痛も暗い思いも、さまたげとならず、その反対に、その幸福の前提として、それを引き立たせるべく呼び出されたものとして、またこのように充ち溢れた光明のなかで《なくてはならない》一つの色どりとしての働きをするのである。それはリズミカルな性格をもつ一つの本能であって、それが広い形相の世界をおおい包むのであるーーその持続性、大きくひろがるリズムに対する欲求が、ほとんどインスピレーションの力をはかる尺度であり、その圧力と緊張とに対抗する一種の調節となるのである。(ニーチェ『この人を見よ』)
主体の解任において己の裸の欲動に出会ったら、ひどく恐ろしいのである。それは穴、あるいはブラックホールなのだから。
私は欲動の現実界 réel pulsionnel を穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動 la pulsionを特徴づけたことを。(Lacan, à Strasbourg le 26 janvier 1975 en réponse à une question de Marcel Ritter)
引力:抑圧されねばならない素材のうえに無意識によって行使された引力。それはS(Ⱥ) の効果である。あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF)
おわかりだろうか? ニーチェはヴァギナデンタータという女主人S(Ⱥ) に遭遇したのである。くどくなることをおそれずにさらに引用すれば、それは次のようなものである。
内側に落ちこんだ渦巻のくぼみのように、たえず底へ底へ引き込む虚無の吸引力よ……。最後になれぞそれが何であるかよくわかる。それは、反復が一段一段とわずかずつ底をめざしてゆく世界への、深く罪深い転落でしかなかったのだ。(ムージル『特性のない男』)
以上がフロイトのいう、ニーチェの前代未聞の「自己省察(内観 Introspektion)」の内実であると、蚊居肢散人のささやかなインスピレーションは語る。
ところでフロイトの論文には《内観 Introspektion》という語彙の出現頻度はわずかである。そのわずかな出現のひとつ、『ナルシシズム入門』から抜き出しおく。
自己観察Selbstbeobachtungーーパラノイア観察妄想 paranoischen Beobachtungswahnes の意味における--…哲学的な素質のある、内観 Introspektion に習熟した人にはこれがはっきり現れるのかもしれない。(フロイト『ナルシシズム入門』1914年)
蚊居肢散人のささやかなインスピレーションとは、もちろん哲学的素養のない《パラノイア観察妄想 paranoischen Beobachtungswahnes 》である・・・
とはいえ蚊居肢散人は《探すのではなく、ただ耳に聞いたのである。》(ニーチェ)