嵐をもたらすものは、もっとも静寂なことばだ。鳩の足Taubenfüssenで歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」ーー「鳩の足」と「鳩歩む」)
このところ「私の恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrin」をめぐっているのだが、デリダが次のように記しているのを見出した。2004年の会議であり、デリダ死の年である。
わたくしはデリダをほとんど読まないが、蚊居肢子と同じ(?)「洞察」に至った先行者がいるのを遺憾ながら認めざるをえない。
鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。
最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。
そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。
……今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない…とりわけ鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で à pas de loup」だ…
デリダのいう《私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi》とは、もちろん《自我であるとともに、自我以上のものmoi et plus que moi 》(プルースト『ソドムとゴモラⅠ』「心情の間歇」)あるいは《あなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉toi plus que toi, qui est cet objet(a) 》(ラカン、S11)と等価である。すなわち外密 extimité である。
親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
しかしデリダは《私の耳のなかでささやくmurmure au creux de l'oreille》としているのが惜しまれる。これは蚊居肢散人の「洞察?」に依拠すれば、《内耳 labyrinthe のなかでささやく》としなければならない。内耳=迷宮であり、アリアドネのことである。すなわちアリアドネがささやくのである。
「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)
迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿、 1882-1883)
デリダがすぐれているのは、鳩の足はじつは狼の足だとしたことであろう。残念ながら蚊居肢子はそこまで簡潔に言い切れていない(参照:人は探すのではなく、ただ耳に聞くのである)。この点にかんしてはマケを認めざるをえない・・・