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2017年5月23日火曜日

幻聴というレミニサンス

特殊な幻聴として、過去にいじめたりした人の声が生々しく侵入してくることがある。これは阪神・淡路大震災で有名になったPTSDの一種で、フラッシュバックの聴覚型である。これは数秒しか続かず、そのまま夢にも出てきて、また、出そうと思えば出せるという特徴がある。薬が効きにくいが、睡眠を深くするとよくなる。(中井久夫「症状というもの」1996年『アリアドネからの糸』)

この幻聴は「いじめ」等々とは関係がなしに起こる場合があるはずである。中井久夫の「外傷性記憶」の叙述を追っていくと論理的にそう考え得る。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

レミニサンスには一般に視覚映像が多いらしいが、そうでない聴覚、嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚等々があって当然である。

成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」2002年初出『徴候・記憶・外傷』)

たとえばロラン・バルトは次のように「におい」を強調している。

プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

中井久夫は幼児型記憶と外傷性フラッシュバックの類似性を強調しているが、三歳以前の幼児型記憶だけではなく、《「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」》とすれば、三歳以後の記憶でも、レミニサンスとしての回帰はあるはずである。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

中井久夫は、プルーストのレミニサンスは、《フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく》としている。

敢えて私自身の言葉を用いれば、マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」一九九〇年、『徴候・記憶・外傷』みすず書房、二〇〇四年版所収)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが( …)、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。( …)それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveurをももたらしうるものである。(中井久夫「吉田城先生の『「『失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)

だが他方で、次のようにも書いている。

おそらく、心の傷にもさまざまなあり方があるのだろう。細かな無数の傷がすりガラスのようになっている場合もあるだろうし、目にみえないほどの傷が生涯うずくことがあり、それがその人の生の決定因子となることもあるだろう。たとえば、おやすみなさいのキスを母親に忘れられて父母が外出をする気配を感受する子どもの傷である。(中井久夫「吉田城先生の『「『失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)
私には、『失われた時を求めて』の話者の記憶は、抑圧を解除されたフロイト的記憶よりも外傷的なジャネの記憶の色を帯びているように思える。プルーストの心の傷の中には、母親に暴言を吐き、ひょっとすると暴力を振るってしまったことによる傷があっても不思議ではないと私は思う(『ジャン・サントゥイユ』あるいはペインターの『プルースト伝』参照)。私は初めて『失われた時を求めて』を読んだ時、作家は家庭内暴力を経ている人ではないかと思った)。もっとも、『失われた時を求めて』は贖罪の書では決してない。むしろ、世界を論理的に言葉で解析しつくそうとするドノヴァンとマッキンタイアのいう子どもの努力のほうに近いだろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)

プルーストのレミニサンスにも種類があるのである(レミニサンスではなく、より大きく無意志的記憶といったほうがいいかもしれがいが、プルーストは編集者ルネ・ブルム宛 1913年の書簡でほぼ同じ意味で使っている)。

中井久夫は2000年の論文では、心情の間歇の章にあらわれる記憶の回帰は遅発性の外傷性障害にかかわるとしている。

遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)

ここでラカンは次のように言っていることを付け加えておこう。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ようするにレミニサンスとは象徴界の症状ではなく、現実界の症状である。ファルス秩序(象徴秩序)に囚われ切った神経症圏の人々には起こりづらいのかもしれない。

このように見て来ると、ニーチェの 最も静かな時刻における「女主人」の声はーーこののところこの「女主人」に拘っているのだがーー、フィクションでない、というふうに捉えることも十二分に「可能」である。

クロソウスキーは次のように言っている。

・ニーチェは疑いなく信じた、永遠回帰の思想を抱いて以来、己れが狂気に陥ったと Nietzsche croit sans doute, depuis qu'il a cette pensée, qu'il est devenu fou 

・ニーチェにおいて「神の死」は、「永遠回帰 Éternel Retour」のエクスタシー的刻限と同様に、(散乱する諸アイデンティティの)「魂の調子 Stimmung」への応答である。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

《神の死 mort de Dieu》の思想、「責任ある自我のアイデンティティを保証するものとしての神 du Dieu garant de l'identité du moi responsable」、その神を否定するということは、ファルス秩序から分離し、精神病的になるということでもある(参照)。

最後に、いままで断片的に引用してきた「女主人」の箇所をいくらか長く引用しておこう。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

………そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った

声なき声が私に語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: 」--

このささやきを聞いたとき、わたしは驚愕の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。

「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはそれを語らない」--

………「嵐をもたらすものは、もっとも静寂なことばだ。鳩の足Taubenfüssenで歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。

おお、ツァラトゥストラよ、おまえは、来らざるをえない者の影として歩まねばならぬ。」

…………「わたしは欲しない」

と、わたしのまわりに笑い声が起こった。ああ、なんとその笑い声がわたしのはらわたをかきむしり、わたしの心臓をずたずたにしたことだろう。(ニーチェ「最も静かな時刻」『ツァラトゥストラ』)

《特殊な幻聴として、過去にいじめたりした人の声が生々しく侵入してくることがある》と冒頭の中井文にあったが、いじめた人の声ではなくても、笑い声の幻聴というのは、ひどくこたえるものであろう・・・場合によっては「メドゥーサの首 Kopf der Medusa」の声なき声のような・・・

私はその驚きのことをときどき人に話してみたが、しかし誰も驚いてはくれず、理解してさえくれないように思われたので、私自身も忘れてしまった(人生は、このように、小さな孤独の数々から成り立っている)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)