2016年10月17日月曜日

魂をふくらませるポンプ

十数年前のこと、十月初旬のモスクワはもう横なぐりの吹雪であった。国際空港は悪天候のために閉鎖された。「今日はここで泊まってくれ」「どこで寝ろというのか」係官は事もなげに答えたーー「ズジェーン」(ここでだ)。群集の信じられらないという顔がすぐ激しい抗議に変わった。結局スイス人のねばり強い理性的交渉により外国人に限りホテルが手配された。その間、ロシア人は黙々とその場で寝る準備をととのえ、やがて誰からともなく、ロシア民謡の合唱が始まった。ロシア人の強さである。同じ場面がロシア史に数知れない苦痛に際してあったことであろう。この耐える強さを何度外国人は誤算したことか。

◆The Red Army Choir - "Kalinka"




絶望的に音痴である私には閉ざされた方法だが、合唱こそロシア人とわかり合えるチャンスではないか。ロシア人とは何かがもう一つはっきりしないのも、「ハモる」ことを通じて解けあえる「ことば以前」「意識以前」の何ものかがあるからではないか。歌を通さなくとも、ロシア語自体がこの言葉を解さない者にも訴える力を持つ特異な言語であると私は思う。それは、単なる美しさでなく、脊髄と内臓からの戦慄をよびおこす。(中井久夫「ロシア人」『記憶の肖像』所収)

やあたしかにすごいよ、
 「もっと、お願いだからもっと」であげた音楽もそうだけど

問題は素直にきけなくなってしまっていることだ


雨期のダラムサラで
ダライラマ法王と音楽の話をした
音楽は文化に属する
だがブッダの教えは心の訓練で
それはつまり瞑想だ
ブッダの頃は
修行に音楽はなかった
長く引き延ばした声で経文を歌うのは
よいこととは言えない
教えより声の美しさに心が向いてしまうから
教えが他の土地に伝えられ
その土地の文化によって表現されたとき
音楽も礼拝や儀式につかわれるようになった
チベットや中国で
また日本でも

音楽によって
慈悲や平和と非暴力のメッセージを伝えるのはひとつのやりかただ
と法王は言われた
他方では
音楽はひとを戦いに 駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります
と法王は言われた
とりわけ若い人たちに対しては

ーー高橋悠治 音の静寂静寂の音(2000)

音楽はヨーロッパ人に感性を教えたばかりでなく、もろもろの感情と感性的自我を尊ぶ能力をも教えた。(……)音楽。魂をふくらませるポンプ。異常発達し、並はずれて大きな風船となったいくつもの魂がコンサートホールの天井を下をただよい、信じがたい雑踏のなかでぶつかりあう。

マーラーは、まだ率直に、そして直接にホモ・センチメンタリスに訴えかける最後の大作曲家である。マーラー以後、音楽において感情はうさんくさいものになる。ドビッシーはわれわれを魅惑しようとはするが、心を揺りうごかそうとはしないし、ストラヴィンスキーは感情を恥じている。(クンデラ『不滅』)

◆Dmitri Hvorostovsky - Dark Eyes



でもたまには忘れてもいいんじゃないか、この「黒い瞳」は小学四年生だったか五年生のころぞっこんだったな、カリンカと同様に。

ドゥルーズ$ガタリだって、どうしても惹かれてしまうある種の曲を聴くための「言い訳」をしているようにさえ読める。

……イタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ(……)

要するに、呼びかけに応じて音を発するのが〈大地〉の力なのか、それとも〈民衆〉の力なのかによって、管弦楽編成をめぐる、また声ー楽器の関係をめぐる考え方は二つに分かれ、際立った違いを見せる。この違いを示す最も簡便な実例は、おそらくワグナーとヴェルディの関係だろう。ヴェルディこそ、器楽編成と管弦楽編成に対する声の関係を、しだいに重視していった作曲家だからである。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

◆Les Choeurs de l'Armée Rouge - Nabucco, Choeur des Esclaves(ヴェルディ)