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2016年2月3日水曜日

たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを「安易に」口にだす連中

「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち」にて、例外の論理/非全体の論理(男性の論理/女性の論理)をめぐって記したが、より具体的な例を掲げよう。

前期ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」、後期ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」がまずは例外の論理/非全体の論理となる。前回、中井久夫の家族的類似性をめぐる叙述を引用したが、その核心箇所を再掲すれば、次の通り。

「究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。(……)前者を「公理指向性」、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」と呼んだことがある。(中井久夫『治療文化論』)

この「公理指向性」と「範例指向性」の対比を前提とするなら、まずは、例外の論理は大陸法のようなものであり、非全体の論理はイギリス法のようなものと考えたらよいはずだ。なおかつ、われわれのこうやって使っている「言語」自体が「非全体 le pas tout」であることを忘れてはならない。このことが、ラカンが「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage」と「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre.」と言い続けたことの核心のひとつである(参照)。

…………

さて、ここでの話題(表題をめぐる)に入ることにする。

《たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを口にして書くことの不自由を曖昧にやり過ごすのではなく、「批評」について書きつらねられようとする言葉そのものを途方もなく希薄化し、遂には凡庸な匿名性へと埋没させてしまう力が何であるか、その機能するありさまを事件として生き》ること。(蓮實重彦『表層批判宣言』)

蓮實重彦はここで、実は「非全体の論理」を語っていると捉えうる。それは、巷間に猖獗する「例外の論理」を罵倒しつつ、である。非全体の論理とは、前回も記したように、パラ存在 para-being としてあること、横にずれてある[être à côté]ことだ。

対して、例外の論理とは、「たかだか根源的なと呼ばれる程度の」もの、物自体やら存在の深淵やら表象の不可能性やらを「向う側」に・彼岸に「神」のように設置して語る言説である(前回もみたように、ラカン派の立場からは、デリダにもメイヤスーにもその気味がある)。

人はここで、アドルノやデリダなどによるハイデガー批判の文脈での、《深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕する》という言葉を思い起すこともできる(ジャック・デリダ「異邦人の言語」)。

(ハイデガーの)「存在者の存在の中」というような存在論とこじつけめいた語源学のたぐいは、ある肝心な事柄を見失わせる。それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ。(柄谷行人『探求 Ⅱ』ーー  「“A is A” と “A = A”」より)

さて、これらの議論は、ここのところ続けた「得体の知れないものは形式化の行き詰り以外の何ものでもない」や「「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない」などを見ていただくとして、蓮實重彦に戻ろう。

以下の文で、蓮實重彦は、大江健三郎と江藤淳の「例外の論理」(男性の論理)を批判している。

江藤氏の想像力が「海」、大江氏のそれが「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求し、いわば、いまここにはない失われた風景としての「海」と「森林」とを背景として、「航海者」と「狩猟者」の相貌を浮きあがらせずにはいないのだから、二人の言葉の類似ぶりはただごととも思えないのだが、実はそうした類似するさして重要なものではない。真に驚くべき類似は、にもかかわらず江藤氏と大江氏とがたがいに違ったことを語っていると信じ込み、しかもその確信において、才能の点で自分たちより遥かに劣っているはずのあまたの「批評家」や「小説家」たちといともたやすく馴れあって、薄められた「貧しさ」としての「戦後文学」のうちに埋没してしまう自分に無自覚だという類似であろう。書こうとする個体の意志や欲望にさからいもなくしなだれかかり、馴致されつくしているかとみえる言葉が、実は素直さを装って気軽に存在を招き寄せ、そのしなやかな可塑的流動性によっていとも円滑に筆に乗るかとみせて人目を欺き、かえって言葉への至上権をかすめとって、その洞ろな内面に充実ぶりの錯覚をそっとまぎれこませてしまうという危険を顧みることもなく、書けば書けてしまうという事実のうちに「作家」の特権的視座が確立しうると思いこむことの類似性、それが今日の「文学」的頽廃をあたりに蔓延させているのだが、そんな頽廃を江藤氏も大江氏もまぬがれていないのだ。誰もがそれなりに二つや三つは存在の暗部に隠し持っているだろう「切実な主題」をめぐり、「文学」がたえず捏造してやまない幾つもの疑問符に言葉を妥協させ、前言語的地熱の程よい高まりが、「普遍的」かつ「現代的な課題」と折合いをつけるのを待つといった怠惰な作業が、それにしてもいつから、書くことなどと信じられてしまうようにいたったのか。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収)

もっとも大江健三郎はこれだけではない(例外の論理だけではない)のは、「蓮實重彦の「大江健三郎殺し」」に記した。そもそもすぐれた小説家が例外の論理(男性の論理)による書き手であるはずはない。

中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。(金井美恵子 『小説論』)

…………

かつては、不可能な享楽、不可能なリアルを強調しすぎた、とジジェクは『ジジェク自身によるジジェク』2004で語っている。

彼は最近は次のように言う、《われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。》。つまり不可能な例外にリアルはあるのではなく、非全体の論理における象徴界の非一貫性、その裂け目にリアルはある、と。それは、「現実界は分節化された象徴界の内部に外立Ex-sistenzする」(Paul Verhaeghe)ということでもある。ここで上に引用した柄谷行人の言葉を再度ならべておこう、《肝心な事柄……それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ》と。

ジジェクのいっている意味は次ぎのようなことだ。

現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

ここにも暗黙に「外立」がある(外立の詳細については、「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照のこと)。

ジジェクの上の文は、あたかも蓮實重彦のジジェク罵倒に応えているかのようである。

映画批評が存在しなければいけないという決定的な原理はなにもありません。なにごとについてもそうだといえばそれまでですが、映画批評というものが存在しなければいけないということを原理的に説明しようとすると、比較の問題としてないよりあったほうがいいんじゃないということぐらいで、絶対になければならないということは誰もいえずにいる。じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。

 これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原=翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

 だから、「réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原=翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2


蓮實重彦は、『表象の奈落』の「あとがき」でもほとんど同じ内容をくり返している。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

これらの考え方は、浅田彰もはやい時期から、蓮實重彦を引用しつつ次のように記している。

……クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千言万語を費しているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略だとしたら? それは措くとしても、デリダの戦略は侵犯のエネルギーを中性化してしまうという、クリスティヴァの弱々しい批判を、簡単に黙殺するわけにはいかないだろう。ともあれ、デリダの恐るべき手がそうした言葉たちを敢えて書きつけてしまった時から、我々はそれを避けて通ることができなくなったのである。(浅田彰『構造と力』PP.97-98)

とはいえ、人は表象不可能なものや深淵を語るのが好きだ。たとえば、高橋悠治は次ぎのように書いている。これは詩の形式をとっているという理由で、〈あなた〉は許せるだろうか?

存在の夜にめざめている詩人だけが その一瞬の深淵を感じとる
だからことばは おのずから生まれる 向こうからやってくる
言語がまずあり 意味が決められている単語を組み合わせ あやつって造り上げる詩なるもの ではない
詩と同時に生まれることばでなくては 詩は世界に向かい合っていない
ゲーテの原言語よりも 原植物に近い 言語にならないことば
滝の前の歌い手は じっさいには習い覚えた歌の一節をうたっているだけだ
それは歌い手の内部ではじける滝の音の粒子である移された炎を 覆い隠している殻 残り火に内部から照らされる消し炭の白い灰
そのように ことばにひそむうごき ことばという殻の外から察知される内部の空洞

ーーー高橋悠治「声・文字・音」より

わたくしもかつてはひどい「深淵愛好家」症状をもっていたのだが・・・

さらにふたたび

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 堀辰雄訳

さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈默の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。




……作品はロダンの手を離れると、全くまだ一度も人の手をふれたことのないもののようです。光と影はこの物の上では、もぎたての果実の上でのように、いっそうのやわらかさを持ち、朝風にはこばれて来たようにいっそうの動きに充ちているのです。(……)

或るところでは光はゆるやかに流れているかと思うと、或るところでは滝のように落ちており、あるいは浅く、あるいは深く、あるいは鏡のように輝くかと思えば、またにぶく淀んでいる、--きわめて変化に富んだ傾斜を持つ一種独特なこの表面によって、そういうふうに光が動きを余儀なくさせられるのです。こういう作品の一つにふれる光は、もはやただの光でいることができません、もはや偶然の方向を持つことはできないのです。物が光を所有することになり、自分のもののように使うことになるのです。

明確に決定された表面を持つことから、こういうふうに光を獲得し、わがものとすることを、彫刻的事物の本質的な性質の一つとしてロダンは再認したのです。(……)ロダンは光の獲得を自分の発展の一部とすることによって、太古からの伝統の中へ身を置いたのでした。

実際そこには、リュクサンブール美術館にある『思い』とよばれる、あの石塊の上のうつむいた顔のように、自分自身の光を持った石があります。この顔は影になるまで前に傾いて、石の白い微光の上にささえられていますが、この石の輝きのために影は融け去り、一種の透明なうすら明かりへと移って行くのです。(リルケ『ロダン』高安国世訳)

ーーかつてはこのような文章を読んでクラクラしたものだ。とはいえよく読んでみると、ここには「深淵」という言葉はない。むしろ今は《明確に決定された表面を持つことから、こういうふうに光を獲得し、わがものとすること》という表現に注目したい。

おそらく「深淵」という言葉は(すくなくとも散文にては)、次ぎのように使うべきなのだ。ここには象徴界の内部の非一貫性(非全体)において垣間見られて裂け目としての「深淵」が語られているのではないか。それはリルケの散文と同じく。

彼の演奏した曲のなかには、世界の果てに位置し、作品の内部から発せられる光に包まれていると思われるものがある。質量なき光、厚みも色もない光、われわれを待ってはいない光、人が見る以前にすでにそこにあった光だ。(この光のことを理解するには、サン=ヴィクトル学派の人々によってなされた、世俗的で苦しみをともなう光〔ルーメン〕と貧しくとも法悦をもたらす光〔ルクス〕との対比をふたたび取り上げなければならない。こうしてグールドは曲のどの部分においても無知のままに問いかける者のようにして歩む。なぜこの音が書かれているのか。この転調はどこにゆこうとしているのか。明るいタッチをここにおくならば夜はどう反応するだろうか。肯定する音楽(バッハの<組曲>を演奏しなかったわけではない。だがそのとき彼が肯定するのは、問いはなおも持続するということだったはずだ。しかも沈黙がある。この沈黙の全体、呼吸するためではなくて、誰かの息が絶えるときのように、もはや自己の内部にあるのか外部にあるのかわからないが、いきなり口をあける深淵。音それ自体があまりにも稠密な光を放っているので、音は裏側にあるくぼみの反射でしかないのではないかと思われてしまう。音たちがみずからあがなうべき影、目に見えるものと目に見えないもののあいだにある絶対的な均衡の法則にしたがって音たちが死者の国から連れてくる影。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
グールドの場合には、なによりもヘルダーリンが望んだ表現の透明さ die Klarheit der Darstellungがある。このような透明な光は熱狂的な憑依体験の対極にあるわけではない。このような光は、静謐なものでもなければ抑制されたものでもない。それは奪い取ることであり、切開を意味するのだ。それでいてこの光は冷たく遠くにある。神的なるものの訪れは火、炎、煙の上がる光景を意味しない。グールドを訪れた神はヘルダーリンを訪れた神と同一である。ディオニュソスではない。熱狂的な暗闇の神ではない。アポロンであり、正しきもの、透明なるものなのだ。(同上)

さて〈あなた〉は、たとえばハイデガーの Abgrund[深淵]やら Zerklüftung[裂開]、Riß[断裂]、Lichtungーーー 「森林の空地 」「開存」「出存」「脱存」「脱我的実存」「存在の開け」「存在の明るみ」「存在の光」]などをどう取るだろうか。

これらはラカンが béance[裂口]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、division[分裂],faille[断層]、trou[穴]などの語彙群で言い換えたものだーー。

そしてこれらの中心となる概念が、ラカンのex-sistence(ハイデガーのExsistenzの訳語)やExtimité( 最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 ex に現れ、捉えがたいもの)である。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきでしょう。(ラカン、セミネールⅩⅥ)

…………

おそらく最も大切なのは、「深淵」を安易に語ることによって、次の罠に陥っていないかどうかをつねに自問することだろう。

人がかくも熱心に言葉を取り交わしあって止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか。(浅田彰)
人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦)