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2016年2月6日土曜日

せめて新しい倒錯を発明しようではないか、ラカン派の諸君!

きみたちは、私が何度もくり返したことを聞いたはずだ、精神分析は、新しい倒錯を発明することさえ成功できていない、と。ああ何と悲しいことだ!(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)

Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci : que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer une nouvelle perversion. C'est triste !

…………

倒錯とは、多くの場合、否定的に語られる病理だろう。たとえば、ラカン派のなかのメルマン派は、二十世紀の神経症の時代から二十一世紀の「倒錯」の時代へ、と言う(ミレール派の「ふつうの精神病」の時代へに対して)。この倒錯の否定的側面については、日本でも立木康介氏が『露出せよと現代文明は言う』にて詳述したそうだが、わたくしはその内容については知らない。ただ書評にはこうある。

立木氏は、倒錯を「真の倒錯」と「普通の(それほど異常性が顕著でない)倒錯」とを区別する。真の倒錯が、(サディストのように)他者を道具化し、そこに仮初の全能的自己を上演するのに対し、「普通の倒錯」では、自らにナルシス的全能感の放棄を迫る契機をことごとく否認し、主体化を拒否し、想像的世界への自閉に固執するという形を取る。それは、「主体がある享楽に捉われ、そこから抜け出せなくなっていることを告げている。その享楽とは、つまるところ、主体が否認に訴え、否認共同体に守られて手放さずにいる、その「幼児的万能感」に由来するものだ。フロイトにおいて「母の去勢」と名指されていたものを、ルブランはもっぱら「幼児的万能感の喪失」と捉える。」(書評『露出せよと現代文明は言う』)

このあたりのメカニズムについては、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)」にて、いくらか記述した。

…倒錯者は自らを〈他者〉の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010、PDF

ようは、二十一世紀においては、現在は「幼児的万能感」を抱いた連中ーー母なる超自我と同一化した連中ーーがウヨウヨしているという臨床的判断であり、これは確かにその通りだろう。

ところで、ラカンの四つの言説における分析家の言説の上部 a →$は、ラカンが示した倒錯者の言説の形式的構造 a◇$と類似している。




これはかつて、Serge Andréの『 L'imposture perverse』(1993)にて指摘されているし、ジジェクも同様に指摘している。

ヒステリー者とは対照的に、倒錯者は完全に知っている、彼が大他者にとって何なのかを。知が、大他者の(分割された主体の)享楽の対象としての彼のポジションを支えている。この理由で、倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。

倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮が曖昧化されたもの、囮の背後にある空虚であったりする。

こういうわけで、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。「SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004ーー「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)」)

倒錯者は、自らを「a」のポジション(大他者の享楽の道具)に置く。己れが否認する去勢を$ へと移転させるためだ(倒錯者の幻想は、去勢されているのは彼ではなく、他者たちなのだという事態に支えられている)(参照:倒錯の形式的構造)。

これがラカン理論の分析家の言説の構造と類似するのは、一見奇妙なことだが、冒頭に掲げたラカン曰くの「新しい倒錯」とはこの文脈で捉えうる。

ところで、自らを「a」のポジション(大他者の享楽の道具)に置くという倒錯者あるいは分析家の形式的ポジションは、あきらかにソクラテスのイロニーと類似する。

ソクラテスが一般的な見解を受けいれ、それを提示せしめるということが、彼が自ら無知をよそおって、人々をして口を開かせるという外観をとるーー彼はそのことを知らない、そこで彼は人々をして語らしめるために無邪気さを装って問いかける。そして彼に教えてくれるように人々に懇願する。さてこれが有名なソクラテスのイロニーである。

イロニーはソクラテスに於ては弁証法の主観的形態である。それは交際に際しての振舞いの仕方である。弁証法は事象の根拠であるが、イロニーは人間の人間に対する特殊な振舞いの仕方である。彼がイロニーによって意図したところは、人々をして自己を言表せしめ、自己の根本的な見解を提示せすめるにあった。そして一切の特定の命題からして、彼はその命題が表現していることの反対のものを展開せしめた。即ち彼は、その命題ないし定義に対して反対の主張をなしたのではなく、その規定をそのままとりあげて、その規定そのものに即して、いかにそれ自身と反対のものがそのうちにふくまれているかを指摘したのである。――かくしてソクラテスは、彼の交友たちに対して、彼らが何も知っていないということを知ることを教えたのである。(ヘーゲル『哲学史講義』)

ジジェクはこのソクラテスのイロニーを「プロソポピーアprosopopoeia (Greek: προσωποποιία)」という観点から捉え、次のように叙述している。


ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により対話者の立場の矛盾を露わにし、相手の立場を彼自身によって崩壊させる。(……)ヘーゲルが女は“コミュニティの不朽のイロニーである”と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を“プロソポピーア”に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者はおのれの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになり、彼らが権威化のありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威化は崩れおちる。それはまるでイロニーの聴きとれえない反響が、彼らの会話につけ加えられたかのようなのだ。その反響とは、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (……)神秘的な“パーソナリティの深層”はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。(……)彼は脱-主体化されてしまうのだ。これをラカンは“主体の脱解任”と呼んだ。

プロソポピーアとは、“不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法”と定義される。(……)ラカンにとってこれは会話の性格そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの言表行為の主体と言表内容の主体の区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭いindirect”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』 私訳)

こられから判断するかぎり、ソクラテスの態度は、倒錯者と同じ形式的構造をもっている。もちろん、ここでドゥルーズのマゾッホ論から、《マゾヒスト的服従のうちにある嘲弄という嘲弄、そしてその外面的な従順性に隠れた挑発性というか批評の力》という文を抜き出すこともできるし、このマゾッホ論の訳者の「倒錯的戦略」という言葉を想起することもできる。そもそもフローベールの「紋切型辞典」の戦略は、「形式的には」倒錯者の戦略である。 《ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐ろしくなり、誰もがもう口がきけなくなるようにしなければなりません。》(フローベール私信)。

この辞典が倒錯的なのは、選ばれた少数者から無知な群集へと向う知の伝播の形式そのものがくつがえされているからである。というのも、その各項目に集められているのは、世の中とうまく折り合いをつけた大多数の人間が、どうしても他人とうまくやって行けそうもないごくかぎられた少数者に対して、その居心地の悪い思いをとり除くにはただこう鸚鵡がえしに口にすればそれでよいと保証するたぐいの語彙ばかりだからである。それ故、ここにあるのはもはや啓蒙ではない。かりにそれが啓蒙というものであれば、むしろそれは倒錯的な啓蒙とでもいうべきものだ。(……)

編纂者の目ざすところは、誰もが容認する匿名の物語が、その説話論的な磁場そのもののうちで自己崩壊をとげるということにほかならない。物語が、その物語そのものによって、物語の語り手から物語を奪うという事態が起こらねばならないのだ。無償の饒舌が無償の饒舌を沈黙させること。説話論的な装置としてのこの辞典の機能は、その装置をそっくり機能停止へと導くことになるのである。要するに難儀して作りあげた機械が、いざ完成したとなると、まさにその瞬間に、自分自身をむさぼり喰ってしまうような装置が夢見られているのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)

ここでもうひとつ、蓮實重彦から次ぎの文を抜き出しておくことにしよう。

……装置の語る物語には読みえない肯定と愛と幸福とが、倒錯者には見えていはしまいか。いやいやそんなことはない、と倒錯者は思わず口ごもる。錯乱する装置の過剰なる機能など誰も目にはしなかったし、ましてやそんなものを嫉妬したりはしなかった。荒唐無稽な支離滅裂の祭典、そんなものを夢みたりはしなかったし、探し求めたりもしなかった。無差別なる肯定への意志が幸福だなどと、まさか。肯定するのは装置ばかりであり、装置を超えた肯定など、思いもよらないことだ。愛も、肯定も、装置の歴史をなぞる物語の中にしかありはしない。自分は、そもそもはじめからその愛、その肯定、その幸福のみを口にしていたにすぎない。装置を超えた過剰なる機能の汪溢だと。そんなものは夢かまぼろしであろう。物語に憑かれたものの見る白昼夢だ。物語の忠実なる聞き手には起こりえない錯乱だ。装置にとって過剰なるものなどありはしない。それこそ虚構というものだ。制度がその嘘を逐一あばきながら秩序を回復してくれるだろう。ほら、瞳を凝らしてみるがよい。あれが境界線だ。その向こうには不可視の領域が拡がっている。これが世界の調和ある表情というものだ。だから、間違っても過剰だの荒唐無稽だのを口にせず、装置の不断の機能ぶりを信頼することだ。装置は肯定する。愛も幸福も、その不可視の圏域に身をひそめている。その見えないものに注ぐべき視線を鍛えておくことだ。倒錯者は、そんなふうにつぶやきながら、何ごともなかったように物語と折合いをつける。何ごともなかったように、というのが倒錯者にふさわしい唯一の姿勢だ。事実、何ごとも起りはしなかったのである。

そして、あるとき、倒錯などと徹底して無縁であったものが、何の前触れもなく、一人過剰なるものと遭遇して錯乱する。たぶん、「記号」としか呼びようがない荒唐無稽の何ものか、事件としてある「作品」ののっぺらぼうな顔のようなものの不意撃ちをくらったのだ。彼、あるいは彼女は、生のありあまる汪溢に身をまかせ、手あたり次第に無差別の肯定を実践する。そして、みずからをいっせいにおしひろげ世界の荒唐無稽なる無表情と合一し、そのすみずみにまで自分自身を拡散させる。彼は、彼女は、欠落と思われていたものが過剰として回復したことに支離滅裂な感動をおぼえ幸福だと思う。そしてその幸福をかつて一度たりとも探求したことのない自分を発見する。彼または彼女は、顔もなく名前もなく、失われていた過去さえ持たぬ豊かな無表情といったものに自身を譲りわたし、そのことで何ひとつ放棄していない事実を嘘のように肯定する。この肯定が愛だ、と愛が教えてくれる。放棄することと発見することを同じ資格で戯れさせること。それが愛だ、と愛が愛につぶやく。この理不尽なる愛の過剰。それもが嘘のように肯定される。愛の歴史が事件として生なましく露呈するのは、そんな無方向の時空においてである。だが、倒錯者は、そんな事件についてはいささかも語りはしないだろう。もちろん、そのような一瞬は装置の歴史にも刻みこまれていはしない。だから、そんな話は誰も信じたりはしないのだ。そこで倒錯者は何ごとも起りはしなかったかのように愛の物語に耳を傾け、装置の機能ぶりもますます円滑なものとなってゆく。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収)

この文は、あきらかに戦略的倒錯の顕揚としてとらえうるだろう。われわれは倒錯の否定的側面だけではなく、肯定的側面にも目をそそがなければならない。

ここで飛躍して附記しておけば、巷間のほどよく聡明な=凡庸なインテリくんたちは、この倒錯の肯定的側面のメカニズムについて、いまだまったく不感症の連中である。

もし、一方で、哲学は、m'être (私-在、私-支配)の言説を典型的に表すなら、つまり、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら、《m'être à moi même》(Lacan,S.17)という言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie]も同然である:ーー、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(Lacan,S.17)--を代替すべきだとする。それは、par-être の言説への代替である。パラ存在 para-being としてある言説、横にずれてある[être à côté]言説だ。(Lorenzo Chiesa、2014ーー「「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち」)