……「汝の隣人を愛せ!」 ラカンにとって、隣人とはリアル(現実界)だ。(……)ポイントは「汝の隣人を愛せ!」という命令は、まさに隣人のトラウマを避けるための方法だということだね。……
――それは「地獄からの隣人」と呼ばれるTV番組を想い起こさせます。……
地獄からの隣人! なんて素晴らしい表現なんだ。すこしだけそれに付け加えさせてもらうよ。とりわけこの現在、私は断言したくなるのだが、すなわち寛容やら隣人愛等々の押しつけがましい説教の類のすべては究極的には隣人と遭遇を避けるための戦略だ、と。私の好みに事例をあげるなら、喫煙だ、……私が疑っていること(医学的にさえ問題だと思っていること)は、受け身の喫煙、ーーそこでの焦点は非喫煙者がいかに影響を被るかという考え方なんだ。私が思うには、ここで真に論点となっているのは、喫煙を通して、自己破壊的な方法で、あまりにも熱心に自ら享楽している〈他者〉たちがいるということなんだ、そして人はそれが耐えがたいのだ。ここにあなたはもっとも純粋な形での侵入的な隣人、――過度に自己享楽している隣人を見ることができると思うよ。(『ジジェク自身によるジジェク』私意訳)
このジジェクの喫煙の議論を額面通り受取る必要はない。たとえば寿司屋のカウンターで飲食中、隣席の人物が煙草を吸っていれば不快であるのはマジョリティの感覚だろう。ただし世間に蔓延りつつある過剰な喫煙嫌悪運動は、どこかそれとはことなった領域の心理的メカニズムが働いているのではないか、という問いを発してみる必要が偶にはあるには違いない。
たとえば「煙草について、現在気になること、心掛けていらっしゃることがありますか。」とのアンケートに対する蓮實重彦の回答は、その世間の風潮(ここでは千代田区の条例にかかわるが)への反発を示している。
喫煙について意識的になるのを避けるために、「気になること」や「心掛けること」は持たないことにしていますが、千代田区で吸ったわけではない吸殻をわざわざ千代田区の歩道に捨ててまわるときなど、やはり何かを「心掛けている」のかも知れません。(「ユリイカ」2003)
われわれは他者=隣人のなかにある些細な細部が気になって仕方がない。
……エイリアンたちはまったく人間にそっくりに見えるし、人間そっくりの行動をするのだが、ちょっとした細部(眼がおかしなふうに光るとか、指の間や耳と頭部の間に皮膚が余分についているとか)から彼らの正体がばれる。そのような細部がラカンのいう対象aである。些細な特徴がその持ち主を魔法のようにエイリアンに変身させてしまう。(……)ここでは人間とエイリアンとの違いは最小限で、ほとんど気づかないほどだ。日常的な人種差別においても、これと同じことが起きているのではなかろうか。われわれいわゆる西洋人は、ユダヤ人、アラブ人、その他の東洋人を受け入れる心構えができているにもかかわらず、われわれには彼らのちょっとした細部が気になる。ある言葉のアクセントとか、金の数え方、笑い方など。彼らがどんなに苦労してわれわれと同じように行動しても、そうした些細な特徴が彼らをたちまちエイリアンにしてしまう。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P117-118)
上の文は対象aをめぐって書かれているが、対象aとは、《あなたのなかにあってあなた以上のもの》のことであり、かつ対象aには〈私〉が書き込まれている。これは隣人の享楽に大きくかかわる。そもそもラカンの享楽(=剰余享楽〔対象a〕)とは、マルクスの剰余価値の読解から生れたもので、剰余享楽の「剰余」とは、《何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。すなわち、それは本質的に「過剰」なのである。その剰余を差し引いてしまうと、享楽そのものを失ってしまう。同様に、資本主義はそれ自身の物質的条件をたえず革新することによってのみ生き延びるのであるから、もし「同じ状態のままで」いたら、もし内的均衡を達成してしまったら、資本主義は存在しなくなる。したがって、これこそが、資本主義的生産過程を駆動する「原因」である剰余価値と、欲望の対象−原因である剰余享楽との、相同関係である。》(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)
…………
以下は冒頭の文の「汝の隣人を愛せ」のフロイトーラカン派の基本的な捉え方を記しておこう。
「汝の隣人を汝自身の如く愛せ!」 とはフロイトが『文化のなかの居心地の悪さ』で詳細な記述をしたことでよく知られているが、そこでは《隣人(Nächste)を我がことのように愛するなどということが、どうしてわれわれの義務とされなくてはならないのか?》をめぐっている。
われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、 われわれを誘惑して、 自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手をその同意をえずに性欲の道具として使用し、相手の持物を奪い、相手を貶め、苦しめ、虐待し、殺害するようにさせる存在でもあるのだ。 (フロイト著作集 3, P469)
ラカンはセミネールⅦ(「精神分析の倫理」)でこの文章を取り出し次のように言っている、《もし私が諸君にどこからこのテクストを抜き出してきたのかあらかじめ告げていなかったとしたら、これはサドのテクストだと言って通すこともできたかもしれない。 》(SVII, 217)
《サド(サン=フォン) : 「もしわしが他人から悪を蒙ったら、わしはそれを他人に返す権利、いや、進んでこちらからも悪を働く幸福さえ享有するだろう」》(澁澤龍彦訳)
フロイトが、まるで恐れをなしたかのように、隣人愛の掟がもたらす帰結の前で立ち止まるたびに、浮かび上がってくるもの、それはこの隣人のうちに宿るあの深い悪意の現前にほかならない。ところが、そうであるとすれば、この悪意は私自身のうちにも宿っている。いったいどんなものが、私の享楽の核心であるところのこの私自身のうちの核心以上に、私に近しいというのか? ただし私は、この核心にあえて近づこうとはしない。というのも、私がそれに近づくやいなや――それこそが『文化のなかの居心地悪さ』の意味である――あの測深しがたい攻撃性が現れてくるからであり、私はそれを前にして後ずさりし、それを私自身に向け直すのである。そうすると、この攻撃性は、消え入ってしまった〈法〉にまさに代わって、 〈物〉の限界にあるひとつの境界線を私が踏み越えることを妨げるものに、重さを与えにやってくるのである。 (ラカンSVII, 219)
何よりも毒性が高いのは〈隣人〉という存在、その欲望とみだらな快楽の深淵である。したがって、人間関係を支配するあらゆる法則の究極の目的は、この毒 性を隔離もしくは中和して〈隣人〉を同胞に転じることだ。(他者という、もうひとつの)主体にあるかもしれない毒性をさがすだけでは不十分だ。自己という 主体自体が、その内部の〈大文字の他者〉という深淵に毒性をたたえているのだから。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
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そしてこれらをやや発展させたジジェクの最近の議論(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)。
われわれは「悪役」に魅せられているのではないか、たとえば、再度、例を挙げれば、社会的規範の常識を破って自己破壊的に自己享楽に耽りかえる大橋仁という若い写真家に。すなわち大橋仁の剰余享楽には、あなたがーーたとえばあなたの攻撃性がーー書き込まれているせいではないか。
フロイトの“無意識”とは、……まさに反射性のなかに刻みこまれる。例をあげよう。だれかこの私がヒッチコックの映画の悪党のような人物を“憎むことを愛する”。私は一見この悪役を憎むだけだ。にもかかわらず無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛するのだ。すなわち、ここにある無意識とは、わたしは反射的に私の意識的な態度に関連させる方法なのだ。(あるいは逆のケースをあげよう。だれかこの私は“愛することを憎む”。フィルムノワールのヒーローは、悪魔的な宿命の女(ファムファタール)を愛さざるをえない、しかし彼女を愛することを彼自身は憎んでいる)。これがラカン曰くの人間の欲望はつねに欲望することを欲望することだの意味である。
ここでふたたび、反ユダヤ主義、反ユダヤ人妄想を思い返してみよう、この幻想(ファンタジー)の根源的な間主観的な性質の例として。ユダヤの陰謀という社会的幻想は、“社会は私から何を欲しているのか?”という問いにたいして返答を与える試みなのである。それは私が余儀なく参加させられる後ろ暗い出来事の意味を明るみに出す。この意味で、“投射”の標準的な理論、すなわち反ユダヤ主義者は、ユダヤ人の姿に自らの否認された部分を“投射する”という考え方では不充分である。“概念としてのユダヤ人”の姿は、反ユダヤ主義者の“内面的な葛藤”の外面化に帰すことはできない。逆に、それは次の事実(あるいはこの事実をなんとか処理しようとする)証拠である。すなわち主体はもともと非中心化されており、その意味と論理がコントロールを逃れてしまう不明瞭なネットワークの部分であるという事実である。
この理由で、幻想の横断traversée du fantasmeの問い(ひとびとの享楽を組織する幻想的な枠組みから最小限の距離をとるにはどうしたらいいのか? その効力を宙吊りにするにはどうしたらいいのか?)は精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、われわれのこの時代、レイシストの高揚が再活性化された、あるいは世界的な反ユダヤ主義のこの時代において、おそらくまた最前線の政治的な問いでもある。伝統的な啓蒙主義的態度の不能ぶりは、反レイシスト運動の連中がもっともよい例になる。彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれの(享楽の)リビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画とは、ただひたすら悪人によって魅惑的になる、と)。
最も重要な課題は、敵を弾劾し打ち負かすことではない。その仕事は容易に、敵のわれわれを把持を強めてしまう結果に終わる。肝要なのは、われわれを魅了させる(幻想的な)呪縛をどうやって中断させるかということだ。幻想の横断traversée du fantasmeのポイントは、享楽から免れることではない(旧式の左翼の清教徒気質モードのような)。むしろ、幻想にたいして最小限の距離をとるということは、いわば、幻想的な枠組みから享楽を“鉤から外し取る”ということであり、かつまた享楽は、非決定的な、分割的ない残余であることに気づくことである。すなわちそれは、歴史的な慣性の支持をする固有に“反動的”なものでもなく、かつまた既存の秩序の束縛を掘り崩す解放的な勢力でもないのだ。