このところツイッター上で経済学者を「フォロー」して、彼らの主張をいくらか追ってみることをしていたのだが、もうそれも煩わしくなり、いまは三人の経済学者(池尾和人、小黒一正、斉藤誠各氏)以外は「フォロー」を外した。その生き残りのひとり、斉藤誠氏が次ぎのようなツイートをしている。
@makotosaito0724叔父や父が元気だった頃は、静岡の実家に集まった。28日が一番忙しかった。餅をつき、しめ縄を編んだ。鳩餅と呼ばれたあんこ餅、美味しかったなぁ。
暮れの二十四、五日頃に、隣家から餅つきの音が聞こえてくる。台所のたたきに臼を据えて搗いている。こちらの台所にまで、地響きが伝わってくる。裏庭にまわると、地響きに代わって、杵音が聞こえる。隣家の餅つきの気配だけで、こちらも気分がゆったりするのはありがたい。
わたしの家では、正月に、輪取りという形式の鏡餅を祖先にお供えする習慣がある。輪取りというのは、径二寸五分のまんまるい檜のたがをはめた、厚さ一寸の餅で、これを三つ重ねにしたものを左右一対、三方に載せて仏壇に供えるのである。この輪取りを承知している餅屋は、いまではほとんどないが、蛸薬師通りの新町東入ル鳴海餅という店だけは、いまでもきちんと作ってくれる。年の暮れに輪取りをこの店に注文するのは、順照寺という真宗西本願寺派のお寺と私のところと、二口だけになったそうである。私の家は西の門徒である。輪取りは、この筋からきているしきたりのようである。
序でながら、門松というものを、私の家では昔から立てたことがない。子どもの時分、どの家にの門口にも、根引きの小松が水引で結わえて柱の袖に掛けてあるのに、うちにはそれがないのがさびしく、父にわけをたずねたことがある。
「門徒物知らず、というてな。諸事簡素にするのがしきたりになっている」
と父が応じたような記憶がある。そういえば、他宗でするような盆のお精霊さんの行事もなければ、歳徳棚や荒神松も、うちには見当たらなかった。大晦日の夜のおけら参りというものさえしなかった。柳田国男が浄土真宗を目の敵に、いやむしろ眼中にも置かなかったのはもっともである。
したがって、正月の用意といっても、さして煩雑ではない。テレビが普及するにつれて恐るべき勢いで流行し、いつのまにやらあらゆる家庭が正月の準備の中心みたいになったおせちというものも、私のところでは従来作らなかった。年始のあいさつにきた人は、玄関で応々と呼ばわり、はきものを脱ぐことはせず、その場であいさつして、さっさと帰っていくのがしきたりだったからである。店の間に、ひつじ草の池沼を描いた時代屏風を立てかけ、そのまえに名刺受けをととのえておくと、名刺を投じただけでそのまま去ってゆく人を少なくなかった。年始の客は数が多いということくらい、だれも心得ていたから、あいさつ以外の冗語は互いに遠慮しながら、年始の往来をとり交わしたのだ。これを水くさいというなかれ。礼節は、形式的であればあるほど虚礼から遠ざかるものである。砕けた付合いがもてはやされる時代は、かえって虚礼がはびこる時代であろう。
ところで、八坂神社におけら参りをし、知恩院の除夜の鐘を聞いて帰れば、もう真夜中ということになるが、私の家でおけら参りをしなかった理由は、元旦が一年を通じてもっとも早起きしなければならない朝だったからだ。戦後も、これは当分そのとおりだった。夜ふかし朝寝坊のくせがついた学生時代には、早朝五時に叩き起こされるというだけで正月がいやだった。六時前にはもう来訪する分家の家族を仏間に迎え入れ、仏壇を正面にして左右に分かれて対面し、家族すべて顔をそろえて新年のあいさつを交すーーーこれが中京の多くが、心学の教訓にのっとった家訓にもとづき、長いあいだ実行してきた元旦のしきたりである。
集合の時間が、いつの間にか七時になった。やがて七時半にまで繰り下がった。こうなれば、廃絶までは時間の問題だ。三年まえ、分家の家族ふくめての参集のしきたりは絶えた。
いまでは八時頃、お雑煮を祝うまえに、私の家だけの親子三代が仏間に顔をそろえる。そしていささか堅苦しく「あけましておめどうとうございます。旧年中は……」と型通りのあいさつを表白する。小学生の娘がくすくす笑っている。
正月三ガ日のお雑煮は白味噌、七日は七草粥、十五日は小豆粥というしきたりは、いまもつづいている。食事というものが儀式の一端であるとすれば、この点では、正月は猶かすかに節を保ち、時の折り目の名ごりを、暮しの中にとどめている。(杉本秀太郎『洛中生息』1976)
ーーなどと書いていたら、さきほどこんなツイートに出合っちゃったよ。
私が唯一恐れているのは、私たちがそのうち家に帰って、年に一度みんなで集まってビールを飲みながら「あの時はよかった」などと語り合うようになってしまうことだ。そうはならないと自分自身に約束してほしい。人は何かを欲しながら、それを手に入れようとしないことがよくある。by ジジェク
というわけで「凡庸な」ことを書いてしまった。
……欲望と悔恨によって定義される現在の無表情なとりとめのなさへの苛立ちといったものは、(……)ほとんどの作家が無意識に選びとる執筆の契機である。いま生きつつある瞬間を確かな手応えをもって把握しえず、そこから充実した体験が見失われてゆくという焦燥感が、あっという間に単調なくり返しのリズムに同調してしまう。そこで、倦怠感ばかりが、存在を無為と懶惰な時間へと埋没させる。こんなはずではなかった、と誰もがいぶかしげに過去を振り返る。かと思うと、これではいけないと未来を望見する。かつて確実にこの手でまさぐりえたはずなのに、まるで嘘のように視界から消滅しているものへの漠とした悔恨、あるいは、いま自分が手にしていてもいいはずなのに、そうすることが何故か禁じられているものへの抑えがたい欲望、そうした過去と未来とが描きあげるイメージの鮮明さに対するこのいまという瞬間の曖昧さはどうだろう。(……)
肝腎なのは、生なましく触知しえない現在に苛立つ者たちだけが、思考すべき切実な課題とやらを文学に導入し、何とか欠如を埋めようと善意の努力を傾けようとする点だ。思想とは、この欠如を充塡すべく演じられる身振りにほかならぬ。そしてその身振りは、いくつもの解決すべき問題を捏造する。イデオロギーとは、そうして捏造された諸問題がおさまるべき体系化された風景にこそふさわしい抽象的な名称なのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)