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2016年4月25日月曜日

転げ落ちる坂道、あるいは「格差社会」批判の寝言

道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。(二宮尊徳)

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子どもの貧困格差、日本は先進41カ国中34位」(朝日新聞 2016.4.14)という記事に以下の図がある。




1995年に日本を出たわたくしには、実に「感慨深い」図だが、いまもまだ日本という国は「引き返せない道」を転がり落ちているに相違ない。

一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。(中井久夫「引き返せない道」、1988年初出) 

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国民総所得が高い国でも、自由主義的な国は、貧困格差が大きい、ということはしばしば言われてきた(たとえば、米国、英国)。日本は、すくなくともかつては英米のようには自由主義的ではなかったはずだ。

ところで、バブル期、日本がひとりあたり国民所得が世界一と言われたこともあるが、実際は次ぎのようなことらしい(数字をこねまわせばこうなるということで、このデータといくらか偏差のあるデータもあるが、おおむねこの線であるのは間違いない)。





上に掲げた図の二番目の「PPPベース」については、次のような説明がある。

……豊かさの指標としては為替レート・ベースの比較には限界がある。これを克服しようとして開発されている指標がPPP(purchasing power parity、購買力平価)ベースのGDP比較である。これは一定の商品群を入手するのに各国の通貨でいくらあればよいかを調査して、これをもとにGDPを比較した指標である。

 同じくIMFのデータでPPPベースの1人当たりGDPのランキングを第2の図に掲げた。これを見ると1980年代の後半から日本の経済力は18位以下から12位にまで上昇したが、その後、1990年代の失われた10年といわれる時期に、再度低下し、1999年には20位となり、その後、20~22位を前後している。為替レートの影響を除いて観察すると日本経済の状況はこのような推移を辿っていることが理解される。


この説明を信じるなら、Japan as Number One とか「世界で最も成功した社会主義国」いわれりしたバブル期でも、日本人の裕福度はたいしたことはなかったことになる。

2015年時点の各国を比べれば次ぎのようになる。

◆世界の一人当たりの名目GDP(USドル)ランキング(2015)




PPPベースならどうなるのか。

するとこんな図に行き当たった(信憑性のほどは確認はしていない)。



これらの図表から判断するかぎり、子どもの貧困格差が世界34位というのは妥当な順位ではないか? さらにいえば、経済の下り坂が続いている国であり、反面、高齢者への社会保障給付がかつての経済絶頂期の残滓として維持されている日本では、子どもへの皺寄せがきて、子どもの貧困格差がひとり当り名目GNPの順位26位以下に落ち込んでもまったく不思議ではない。


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ところで、この傾向が続くとき、日本は「平等社会」を目指すべきなのだろうか、--と「挑発的に」言ってみよう。

たとえば、あなたに三人の子どもがいるとする。家計が不幸にして破綻しつつあり、支出を抑えなければならない。そのとき、あなたは三人に平等に教育費をたとえば三割減するだろうか。一人だけを「格差」をつけてーー「依怙贔屓」してーー教育費の支出を維持し、あとの二人は半額にするだろうか。おそらく後者を選択する傾向にあるのではないか。起死回生を狙うなら、いっそうのこと、一人だけに「投資」を集中することだってありうる。

教育費だけではなく、日本社会全体がそういう状況に陥っているようにさえ感じられないでもない。

それ以外にも、一方で、自らの低い地位の格差を歎く当事者からの「格差社会」非難というのは、よくわかるが、他方で、自らが格差社会をうまく泳ぎ、勝ち組/負け組の、勝ち組のポジションにあるものたちーーたとえば、大学教授、大手マスコミのジャーナリスト、大企業の経営者・上位管理職、医者などーーが「格差社会」を批判するとき(ツイッターなどでしばしば見かけるが)、その実状とは何だろう。

弱者への「同情・共感」とは、(ほとんどの場合)自分はそうでなくてよかったという「疚しい良心の裏返し』(参照)にすぎない。しかも多くのばあい、より根源的な(下部構造的な)社会的不正、資本主義(市場原理主義)の体系的暴力に対して「選択的非注意」をしつつの、である。

古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」)

格差社会の原因の主要な原因は、日本の経済の長い下り坂であり、かつまた少子高齢化社会のなかで、高齢者たちがかつての「経済的繁栄」の余韻のままに高額の社会保障給付を受け取っていることだ。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より、PDF

「勝ち組」が格差社会を真に批判をしたいなら、なによりもまずここに目を向ける必要があるはずなのだが・・・

ーーわたくしには連中の格差社会批判は、ほとんどつねに寝言にしか思えない。

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「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するとい う意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公 平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という 言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘 れてはいけない。(岩井克人

シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』には次のようなフレーズがある。

wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act

この「正しい理由から誤ったことをする/誤った理由から正しいことをする」の前文を、次のように変奏しておこう。短期的な弱者擁護の立場から、消費税増に反対して、長期的に誤ったことをする「美しい魂」がうようよしていると。

完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども(ニーチェ)

消費税増については、たとえばフリードマンの「負の所得税」などと抱き合わせで考えたらいいのであり、世界一の少子高齢化社会においては、論理的に大幅増は避けられないはずだ。

増税が難しければ、インフレ(による実質的な増税)しか途が残されていない恐れがあります。(池尾和人、2015)


財務省


消費税も20%以上にした方が公平でしょう。所得税と法人税は、現在の現役世代が主な負担者になります。それに対して、社会保障の世代間格差には、現在の高齢者が、現役世代のときに負担しなかったことが大きく関わっています。だから、現在の高齢者もふくめて平等に負担する消費税の方が公平なのです。

世代間格差から考えると、人口が減少している現在、現役で働く世代に主な負担がかかる所得税や法人税はむしろ逆進的です。消費税の方が非逆進的で、公平な課税なのです。お年寄りの負担がよく話題にされますが、公平な社会福祉をめざすなら、お年寄りもふくめて全員で負担を分かちあって、それで生活保護などを充実させて、お年寄りも含めて、本当に貧しい人の生活を支援するべきです。

「増税」か「年金の抑制」か、ではないのです。「増税」して「年金も抑える」しかない。それが「ポスト戦後」社会の現実です。だからこそ、そのなかで、各世代が公平に負担を負うようにしなければならない。それが世代間格差を解消することなのです。(佐藤俊樹

より専門的には「中福祉・中負担は幻想」を見よ。

だが、この「正統的」提案の受け入れは、「公共的合意」( ハーバーマス )やら、現在の選挙制度ではまったく期待できない。もちろん、これは構造的シルバー・デモクラシーのせいでもあるがーー年齢層からみた多数派で、投票率も高い高齢者集団は政治家にとってもっとも忠誠度の高い支持基盤であり、彼らの不利益になるような政策を掲げるはずはないーー、それ以前に、より本質的な問題があるからだ。

ノーベル経済学賞経済学者ジェームス・ブキャナンは、《民主政国家は債務の膨張を止めることはできない》と言っている。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するから、というものだ。

《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる》(チョムスキー “Necessary Illusions”)

《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(バディウ)

…………

というわけで、何が言いたいのかといえば、勝ち組でも消費税増やインフレがいやなのはよく分かるつもりではあるのでーーそしてきみらのほとんどはとんでもない経済音痴であるのは片言隻語からすぐさま分かるのでーー、そうであるなら、エラそうに上っ面だけの「格差社会」批判云々を(善人ぶって)馬鹿のひとつ覚えのようにするな、ということだ。

それとも諸君らは、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(菊池寛)のたぐいかい? とすれば、経済・財政ぐらいすこしは掠め勉強してから「馬鹿」囀りやれよ(オレがやっている程度の「馬鹿」ぐらいはな、ーーとつけ加えておけば、きみらにすこしは気に入るかもな)。

きみらの「やましい良心」をなんとか埋め合わせたい心持というのは、もし近い未来の財政破綻の可能性・カタストロフィを考慮しなければ、短期的善人ぶりによる「正しい理由から誤ったことをしている」、という振舞いにすぎない。穏やかにいえば、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》っていうやつだ。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


格差社会を勝ち抜いてきたには違いないんだろ、いわゆる「勝ち組」のみなさんよ! 他者を(無意識的にせよ)蹴落としてな

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

だから、この際、被害者の側に立って、肩の荷を軽くするってわけかい?

だが、財政破綻したら、公共サービスも年金給付も生活保護も止まり、餓死者もでるかもしれない。つまり弱者が一番被害を蒙る。諸君らの「美しい魂「は、この道を早めているんじゃないか、と一瞬でも疑ったほうがいいんじゃないかい?

アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい。そして、わたしはすでに年寄り世代ですが、それは望ましいことだと考えています。 (お金とは実体が存在しない最も純粋な投機である ゲスト:岩井克人・東京大学名誉教授【前編】

とはいえ、やむえず行われたーー長期デフレ(転げ落ちる坂道)治療のためにはあれ以外に手がないとの判断でなされたーーアベノミクスの博打は、残念ながら、大負けだというのが大方の見解だ……「日本は「最終局面」シナリオを実行中と前IMFの主任エコノミストが認める


最終局面とは、すなわち、そろそろ《賭けるものが無くなる》局面である。

……他に智慧が無いから博奕を打って閑を潰す。(……)博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々負けて復取られて終うと、終には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一勝負したいと、それでは乃公は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。(幸田露伴『蒲生氏郷』)

黒田日銀にとっての「土蔵」がなんであるかは言うまでもないだろう・・・

いくら海外に「逃亡」したからといって、日本という土蔵が叩き売られるのは、あまりみたくない。